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幸田露伴の評論「頭脳論」

頭脳論

 良い頭脳と悪い頭脳との差は、例えばスポンジと石のようなものである。即ちスポンジは物を吸収するけれども石にはそうした作用がない。そこで良い頭脳の人は他人の発する片言隻語であっても、まるでスポンジが物を吸い込むように、直ちに取り入れて自分のものにする。これに反して悪い頭脳の人は、たとえ多くの好い先生に種々のことを教えられても、中々吸い込まないから、昔から愚人のことを石頭と云ったのである。どうも石では何年経ってもどうしようもない。たとえインクの中に浸っていたって石では吸い込めない。それと同じで、もともと他の物を受け入れることが下手な者は従って進歩も遅い。頭は石ではいけない。スポンジで無くてはいけない。しかしスポンジでなくてはいけないが、スポンジは善いものだけを吸わない、悪いものも吸うのである。そこで、優秀な青年も途中から急につまらない者になることが生じて来る。つまり、善いものを吸わないで悪いものを吸い始めたからである。このように人の体質や性質というものはイロイロであるけれど、大凡は石的なものとスポンジ的なものと二ツに分けて観察することが出来ると思う。
 サテ、ここに耕されていない土地があるとする。今この土地に種を蒔く場合には、先ず何よりも耕さなくてはならないが、それには相当の時間と労力と困難を経なければならない。その上でなくては有効な土地にならない。荒れ地を耕すということは随分厄介なことに違いない。之を耕して田畑にするのは非常な準備が要る。けれども、そうしなければ何を蒔いても植え付けても、結局は無駄に終わってしまう。これと同様に耕されていない頭脳を持っている者が、これに何かの種を植え付けて花を咲かせ実を結ばせるには一ト通りでない準備が要るのである。そこでその準備が要る為に、即ち多大な労苦と時間をかけるのを厭い恐れて、ついに良い畑に出来ないことが世間には随分とある。例えば幼少時に教育を受けなかった者が、中年以降に自発的に勉学することが少ないのは即ちこの理由に由るのである。また、しばしば鋤鍬(すきくわ)によって幾度となく耕された土地は、これに菜を蒔(ま)くにしても稲を蒔くにしても容易に蒔ける理屈である。そしてそれほどの苦労をしなくても、希望のものを蒔いて希望のものを得られるのである。これと同様に耕されている頭脳を持っている人は何を学んでも相当な結果を挙げられる。そこで人間の頭脳はどうしても耕されていることが先ず第一に必要である。鋤鍬の入りやすい状態になっている土地は、直きに農作物の結果を挙げられる。即ち教師から受けることも、また書籍から得る知識でも感情でも全て透りやすく入り込みやすいから、結果を挙げることもまた早いわけである。そして鋤鍬の入らない土地は荒蕪地として永久に捨てられてしまう運命となる外はない。そうしたくない以上は、土地は少なくとも耕された土地でありたい、そして蒔かれる種子を待つが善いのである。人もまたそうした頭脳になっていないと、何を植え付けるにしても、ただ徒(いたずら)に準備や労力にばかり貴重な時間を費やすことになる。
 近頃、個性を尊ぶ議論が甚だ喧しく行われているようである。個性を尊ぶことは当然である。しかしながら若し此の個性というものを感違いして、他の物を受け付けないのが個性を尊ぶことだと理解するのであれば、それは以ての外の誤解であって、その人は即ち先に云った石頭になって仕舞ったのである。また近頃、原始状態の溌剌とした気分を尊ぶべきと云う人が多いが、これも尤もである。実際に、いやにコセコセした、マセた、虚飾の多いことは決して喜ぶべきことではない。であるが、若しこの議論を誤解して、無暗に人に耕されるのを拒絶する石交じりの土地のように、ただ徒にゴツゴツして一人よがりに威張って居たならば、それはまるで荒蕪地として捨てられる土地のようであって、このような頭脳の所有者は、社会の上から必ず捨てられてしまう運命の人となってしまう。そこで、人はどうしても耕された土地のように、柔らかな、潤いのある、そして水や光線や寒気を能く吸い込める状態にして、学問にしろ芸術にしろ、何事もそこに下される種を十二分に成長させることが出来るようにしたいものである。
 以上は耕された頭脳の必要を云ったのであるが、今一ツ、我々の頭脳は常に適当な水路のようなものを持って居なければならないということを言いたい。例えば、雨の降る日は地面に水が溜まる。その場合に地面に小さな凹凸が沢山出来ていて、まるで捏ね返したようになっていると、その土は中々乾きが遅い。しかし若しその土が平素から踏み固められていて凹凸がなく水はけが良ければ、その水はしばらくすると引いてしまい、その土は速やかに乾く。それからまた、その平坦な地面の中もしくは端に一條の溝があれば、たとえ雨が降っている最中でも、その雨水はズンズンと溝に流れ去って、雨が止めば地面は日光に曝されて乾くのも速いだろう。尤も小さな凹凸は要するに小さな溝が幾ツもあるようなものではあるが、その幾ツもある凹処凹処に溜まった水は、自然に吸収されるか若しくは蒸発される迄は依然としてそこに在るから、土が乾くのもまた遅い理屈である。しかし凹凸が無ければ、水はどちらか一番低い方に流れてしまうので早く乾く。そこに若し一筋の溝があれば此の溝に落ちるので一層速く乾くことになる。今これと同じ理由で、小さな凸凹が沢山ある混乱した頭脳では、何事かに覆われた場合はその不利な状態によって乾き上がるのも非常に遅い理屈である。これに反して、平坦で明白な頭脳は何事かに覆われた場合でも、能くその状況から脱して害を被らないですむ。もしまたその平坦で明白な頭脳に筋道の立った溝が在れば、たとえ不快な状況に遭遇しても、それを悉くこの一條の溝へ流し去り、若しくは或る地点に整理することが出来るので、最も早くその不快な状況から脱することが出来るのである。
 すべて人間世界のことは善い状態ばかり有り得ないのが常であって、例えば、ある学科を勉強している学生があるとする。しかしその学生は自分の思い通りに何時までも勉強できることが続くものでは無い。その勉強を妨げる状況というものが生じて来る。まるで、地面を常に乾いた状態にして置きたいと思っていても、雨が降る、雪が降る、そして雨雲に覆われるようなものである。このように世間や人事は変転極まりないものであって、同じ状態を持続し難いものなので、予(あらかじ)めその雨や雪の害を受けないようにしておく必要がある。小さな凸凹のある地面のように、何時もその凹処に水を溜まらせて置いたのでは、その人は一生不利な状態に悶々としていなければならくなる。そこで、その不利な状態を排除する溝を作って置く必要がある。そうすれば、その頭脳を自分のこころざす学科なり何なりに専念させることができる。これが出来ていないから世の人々は或る一事を学ぶにも好結果が得られないことが多いのである。つまり凹処に溜まった水を排除する溝を持っていないので一事に専念出来ないのである。例えば数学を学びながら数学に専念出来なければその理解は遅く、従って進歩も遅い。しかし専念できれば、その人の頭脳が特別に優っていなくとも必ず自然に進歩するものである。しかし数学と自分の間に邪魔物があると専念出来ない。専念できないから理解も悪く進歩もしないという訳なので、是非自分の頭脳を不利な状態から解放するように努めなければならない。どんなにその学科に専念しようとしても、不利な状態に覆われている間はとても駄目である。
 若し出来れば、このような不利なものに自分の頭脳を蔽われないようにして置くことが、最も得策であるに違いないけれども、先にも云ったように人間の事は善い事ばかり続くものではないから、常に自分の頭脳をこのようにして置く必要があるのである。即ち平坦で明白な頭脳にして置くことである。そのためにはしばしば述べたように、不利な状態を排除するための溝を作って置くことである。では、その溝とは何であるか、どうすれば作ることが出来るのか、もちろん脳髄の中に溝を作る訳にはいかないので、感情を鍛錬して置くと云うことである。
 元来、頭脳を不利な状態に陥らせるのは感情の小凸凹である。即ち小さな悲しみや小さな喜びである。これ等のものは何れも地面の小凸凹のようなものであって、この凸凹の多い地面に雨雪が溜まることが多いように、平素から感情の安定を心がけずに、その浮沈高低に任せて少しも平らかにすることに配慮しないでいると、一度(ひとたび)不利な事情に遭遇すると忽ちその影響を強烈に感じ苦悩して、そのために正しい判断が下せなくなる。従って志すことに専念できなくなる。しかしながら、平素から感情が安定して居れば不利な事情に遭わなければ猶更だが、若し遭ったとしても、その不利な事情の為に影響される時間は短く済むのは、平坦で明白な地面が長く雨水を溜めていないのと同様なのである。若しまた高尚な信念や善良な宗教の力などを持っていると、それは溝の在る地面のようなものである。一度不利に覆われても誠に爽やかにその不利な事情を処理し排除することができる。これに反して、感情の浮沈高低をそのままに放置しておくと、一度不利に覆われると溝の無い地面同様、その不利な事情が自然消滅しない限りは不利な事情は無くならない。こうなるとたとえ比較的優秀な頭脳を持った者でも、その不利を被らないことは難しい。学校の教室で授業を受けていても、心中に不利を湛えている者はどうしてもその不利の影響を受ける理屈である。数学をしながら昨日見た映画や今朝出あった家庭の小さなイザコザ、友人との感情のモツレなどの感情の激昂を抱いて居て、どうして学業に専念できよう。まして恋愛の雨水などを受けた時などは、とてもその濁水が乾かない以上は学業に専念することなど到底思いもよらないことである。
 本来、世間にはそのように不明で愚な頭の人ばかりがいるわけではない。ただ段々と知識が発達するに従って種々なもののために覆われて学業に専念できなくなる。その結果として理解力が鈍くなり、記憶力が消失されるのである。まして生活上の困難などに覆われるようなときは特別で、一層その影響は激しい。けれども感情が鍛錬されている人にとっては受け取るところの雨水の分量は多くても、平坦な地面のように容易にその不利を駆除してしまう。世に神仏を信じる者が、時に逆運に遭ってもまた起き直る力を持つと云うのは即ち此れで、神仏と云う溝によって巧みに排除してしまうからである。これは神仏の力に拠って或るものを得るというよりも、神仏の力でその不利を流れを去らすことが出来るからである。小さな自分の吸収力や緩慢な自然の蒸発力をあてにしなくても、大きな溝の力でこれを導き去らせることが出来るからである。世には神に任せるとか仏に縋るとかいうことを、如何にも不甲斐ないことのように思う人がいるが、決してそういうものではない。これは言わば自然の摂理に任せるのであって、神仏から或るものを取ろうとするのではない。即ち不利な状態を自然の摂理に委ねるのである。之を委ねると、自然の力は大であるから、何の造作もなく摂理する。であるのに、小さな凸凹の地面に雨水を湛えて、不利な状態の下で悶々としている者などは、この自然の摂理が行われる世界で、その摂理を強いて拒んでいるようなものである。そのため自然の力の発揮は遠回りした長い時間の後でなければ行われないことになる。誠に廻り遠い愚かな話ではないか。
 そこで、我々の頭脳にその溝が無いということは第一の不幸で、また平坦でないということは第二の不幸である。この意味に於いて、ある信念を持つことは極めて大切である。また、感情の鍛錬ということも同様に重要である。学んで成らず、行って中絶するのは、即ちこの鍛錬を欠き信念の溝を持たないためで、普段から感情を放恣している人の陥るところである。その放恣も大きなものなら未だしも、小さなものを放恣にだけ任せている人は、いわゆる優柔不断に、ただ徒にグズグズモヤモヤして日を送って終わることであろう。そこで、各種の不利不快を被っている人にとって、心地の平坦明白ということくらい大切なことはないということになる。この溝を持っている人は最も幸福な人だと云いたい。
(大正七年一月)

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