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幸田露伴の随筆「潮待ち草32・33」

三十二 髭鬚剃り
 何事によらず手前へ手前へと理詰めに順序良く考える人がいる、事を行って過失少なく生まれついた人である。或いは先へ先へと心のおもむくままに考える人がいる、事を行って失敗多い人だが十に一二は意外な成功を収める人である。或いは傍(はた)へ傍へと逸れて入り込む人がいる、一生苦労して苦労の仕甲斐の無い人である。
 手前へ手前へと順序良く考える人は、自ら髭鬚(ひげ)を剃ろうと思うと、マズ剃刀(かみそり)を研ぐことを思い、剃刀を研ぐことを思うとマズ砥石の事を思い、砥石の事を思うとマズ名倉石の有無を思い、サテ名倉石も有り鳴滝石も損傷していないと知れば、それぞれを取り出して心静かに石でもって砥石の面を平らにし、やがて剃刀を研いで、その後で髭鬚を剃るのである。このような人でも髭鬚剃りをするにあたっては、時に鼻の下や顎の辺りなどを誤って傷つけることがないとは云えないが、マズは過失が少ない。先へ先へと考える人は髭鬚を剃ることを思うや否や、直ちに髭鬚剃り後の衣服を着替えのことを思い、衣服の着替えを思うや否や、電車に乗ってドコソコへ行くことを思い、その帰りには何屋に立ち寄って何を下物(さかな)にして飲もうかとまで、思いを先へ先へと馳せる。この類の人で少し愚かなのはともすれば、勧業債券(今の宝くじ)の一枚でも買えば忽ち千円が当たるように思い、千円が当たったらアレも買おうコレも買おうと、未だ当たりもしない中からさまざまに心を使って善い夢を組み立てて、諺に云う取らぬ狸の皮算用と云うことをする。人が碁石(いし)を取って、自分の碁石が生きる先の先だけを思い楽しんで、目のない碁石を次々と置いた結果が敗勢が固まって、大きなため息とともに一局を終えるのがこの類の人の常であるが、髭鬚を剃るにしても鏡に対(むか)い剃刀を執って、二剃(ふたそ)り三剃(みそ)りゴリゴリと剃ったが剃り味が好くないのか、「砥石、砥石」と呼びたてて、砥石が来るとマタ直ちに研ぎだしたが、サテその刃の付くのが遅いのに苛立って、「名倉、名倉は」と訊ねて、あいにく名倉は子供が持ち出して今は無いと知ると、砥石も剃刀もそこに捨て置いて、急に町に走り出て床屋に入り、剃りかけ顔の可笑しさを見習いの小僧に密かに笑われながら、三四十分も待たされた後にようやく剃って貰うような愚かな振る舞いを演じる。その人から云えば一々もっともなことではあるが、他人(ひと)から云えばすべて愚かなことである。傍(はた)へ傍へと逸れ込む人は、剃刀を研ぎだして、砥石の台が低いために研ぎにくいのだと気付き、新しく台を造ろうとして鋸を取り出して木を切り出したが、よく切れないことで刃の潰れていることに気付き、目立てをしなくてはと思うようなことである。髭鬚が剃れるのは何日になるやら測り知ることは難しい。一生にさまざまは職に就いて、いろいろの仕事を為して、その履歴を尋ねる者に、デパートの商品陳列の中を通り抜けたような心地にさせることが、ともすれば此の類の人にはあるものである。
 順序良く理詰めに考えて物事を運ぼうとしても、蹉跌(つまづき)や過失(あやまち)は十に七八は生じるのである。やがて相手の碁石(いし)を取って目を持つ積りの目論見で、心の眩(くら)んだ碁を打ったり、又は傍題(ぼうだい)や落題(らくだい)の歌を詠むような性格に生まれついた者は、他人の五倍も十倍も努力して修練しなければならない。

注解
・名倉石:愛知県の名倉で採れる天然砥石。砥石を平らにする砥石。
・鳴滝石:京都の鳴滝で採れる天然砥石。刃物の仕上げ用砥石。
・勧業債券:明治期に日本勧業銀行が発行した。
・傍題の歌:お題から外れた和歌。
・落題の歌:お題を詠み落とした和歌。

三十三 墨
 今日の事を能くやり遂げようとも思わずに、明日の仕合せの好いことを願い、親兄弟妻子に頼りにされようと励む意(こころ)は無くて、神仏に愛され守られたいと祈るような男と、永く親しく交際することは大層難しい。はじめから交わらないに越したことはない。墨であっても、よく磨れば書く文字の色は自然と黒くなるものを、世の中には善く墨を磨らないで文字を書いて、その色の薄いことを怒って、「この墨はうすい、黒くない。」と云って罵る人がいる。どんなに悪い墨でも黒くない墨のあるハズも無く、云えば何とも云えるもので、我儘な人は自分のよく磨らないことは云わないで、墨の黒さが足りないなどと云う。このような人と交わって罵り怒られないことは殆んど望めない。我儘な人と交わって後で向かっ腹を立てるのもバカバカしく、怒りを抑えて自ら苦しむのもバカバカしい。今日の事をよくやり遂げようとも思わずに、明日の仕合せの好いことを神仏に祈るような人とは、間違っても交わってはいけない。必ず災いを受ける日が来るだろう。


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