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幸田露伴・支那(中国)の話「蘇子瞻米元章①(蘇東坡)

蘇子瞻米元章

 宋一代の文豪書聖と云うべき人は二三に止まらない。欧陽永叔(欧陽脩)や曽子固(曽鞏)や王荊公(王安石)等は勿論のこと文豪である。為政者の方で名が通っているが司馬温公(司馬光)もまた立派な大文章を遺した人である。朱文公(朱子)も道学先生の方で名が通っているが、その文豪であることを認めない訳には行かない。呂東莱(呂祖謙)も真に好人物で篤学温厚な長者であるが、それでいて中々の文豪である。その若い時の文章なので絢爛で多少駢儷体であるが、「東莱先生佐氏博議」などは詩才の豊富な事を示して余りある。特にそれが先生の新婚当時の、友人も遠慮して余り訪問しなかった時期に成された文章であると聞くと、実にその人柄も思われて、ひとしお嬉しい。新婚時代に成された文学であれほどのものは古今に先ず類例がないと思う。朱子や呂公の向う側に立って、道学的で無く豪傑的で、書斎的で無く実際的で、正々堂々、一世の知勇を圧倒して古今の心胸を開拓したことに於いて一日の長ありと私(ひそか)に思う陳同父(陳亮)は、一生に三度獄に入って生死の岐路に臨み、一度は朝廷を主導して天子と上皇と東宮とを欣喜させたほどの奇異な運命を持つ英傑で、朱子が畏敬したほどの人であるが、不孝短命に終わって力を伸ばすことが出来なかった。しかし、その文章は伸び伸びとして高く人の気持ちを浩然とさせる、勿論この人も一文豪である。蘇老泉(蘇洵)の手堅い文章や、蘇子由(蘇轍)の温藉でしかも確りした文章も、その人が文豪であることを示すものである。が、蘇東坡居士(蘇軾)などは、天子の知遇を得ながら重用されることの無かった不幸はあったが、その代わりに如何にも文人的に詩人的に一生を終わって、後の人に無限の思慕と同情を寄せさせ、その詩文は勿論のこと一片の書や細やかな行状でさえも、皆それぞれ輝きの光を挙げて後人の眼を射ち、豁達風雅の詩を遺して、後人の胸に多く親しまれている。もちろん東坡居士は唯の文豪や詩豪ではない、その節操と議論は歴史上に燦然としていることは今さら言うまでもない。であるので、居士の風流の余韻を拾ってその瑣事を語るなどは寧ろ居士を尋常一様の文人や詩人として扱うようで、却って面白く無いと云えば云えるのであるが、今は唯その大を捨ててその小を語り、居士の日常に於けるその面影を述べる。と云うのも、この大才とも仙才とも云うべき人の日常普段の飾らない風雅な生活、いわゆる日常生活の状態を語る方が、今の人には却って親しみもあって理解出来ると思われ、居士の「伝神記」で云うところの、いわゆる頬上の三毛や眉後の三紋のように、人を描写してその精神を伝えるからである。居士の真骨頂は歴史がこれを語り、居士の詩や文章がこれを語っている。若し真に深く居士を知ろうとする人は、直ちに歴史で居士を知り、居士の詩文で居士を理解するが善い。
 宋一代の書聖もまた甚だ少なくない。聖の字を贈ることに異論のある人もあるかも知れないが、そんなに窮屈に考えなければ、前に挙げた東坡居士なども文豪であるだけで無く書聖でもある。伝統や師伝を重んじる面から云うと、東坡は誰の筆法を受けたと云うことも無く、誰の書を伝えたと云うのでもないから、「玄妙類摘」のような書では、何だか外道のように、「師承(師伝)無くして独自で一家を成した」としているが、何も蔡邕(さいよう)や王義之以来の筆法の伝統に属さなければ良くないと云う窮屈な理屈はないから、独自に一家を成したとしても、それはそれで結構なことなのである。腕に支障があったようで、左に引く画(かく)は勢いがあって伸びているが、右下へ引く画は縮んで短いと云われている。そうかも知れないが、そう云う腕でもあれだけの書が出来ていることは、いよいよもって立派なことで、称えられこそすれ貶すことは出来ない。定家卿は中気気味のところがあって妙な筆つきだと云われているが、後の定家様式を書く人は一生懸命にその中気気味のところを学ぶのである。「宋の人の字は」と云って一概に貶す人もあるが、その字はその人から出るのであるから、却って晋や魏の字を丸出しにしたところで褒めた話でもない。宋人の字、明人の字で差し支えは無い。好いものであればそれで好いでは無いか。蔡襄も当時に於いて師と仰がれた人である。これは王義之以来の系統を引いている立派な、云わば伝統的で端正優雅なものである。黄山谷(黄庭堅)は詩に於いても書に於いても東坡に雁行して自ら弟子のように謙遜しているが、どうしてどうして詩も書も自ずと一家を成している。米元章(米芾)は勿論、宋に於ける書の偉人である。一ト癖も二タ癖もあって、しかも恐ろしい自信家だったので、後の人に嫌気を持たれて悪く云われるが、容れられない事でその大きな事を知ると云うものである。当時において米・蔡・蘇・黄と云われて尊崇されたのは決して偶然では無い。「水滸伝」で聖手書生と渾名される蕭譲が蔡大師の偽筆をする場面で、「四大家の書は天下に行われているから、蔡大師の書を贋作するのは訳無い」と云うところがあるが、あれは蔡襄と蔡京が同じ蔡氏なので、一寸かこつけて書いているので、蔡大師即ち蔡京も立派な書家であるが、四大家の中に入っているのは蔡京ではなく蔡襄なのである。これ等の四大家の中でも蔡襄は地位もあり学術もあり、また蘇東坡も黄山谷も詩文の才で優っているので、たとえその書がそれ程でなくても、世の人に重んじられる傾向があるが、米元章などは全くその書が秀逸なだけで他の三家と肩を並べているので、単に書だけで論じたら寧ろ三家に優っていると云ってもよいかも知れない。とにかく元章は書画を生命とした風雅の人で、その人柄も甚だ面白いので、今は文豪としては蘇東坡の生活の瑣談を雑然と伝えて、書聖としては米元章を選んでその生活や言動の興趣ある瑣談を伝える。
 下らない奴が想像した俊秀な人ほど嫌らしいものは無い。支那(中国)の小説に、東坡に聡明敏慧な妹がいて兄妹でお互いに嘲笑し合うと云う話を、詩詞などを挿んで書いたものがある。いわゆる世に伝わるところの「蘇小姐」がそれである。その小説によると東坡は非常な近視で、小姐は非常なオデコであったと云う。それで近視を笑う詩やオデコを嘲る詩などが載っているが、詩は勿論全て俳諧的で、何れも卑賎で取るに足りないものである。東坡の文章は妾の朝雲にまで及んでいるが、妹の事を記すのは「亡き妹の徳化県君を祭る文」があるだけだ。その文によると、「姑に事(つか)えるに母の如くし、夫を敬するに実の如くする。」とあるから自分に厳しい淑やかな人のように思われる。「蘇小姐」などは思うに無知蒙昧な人のデタラメな作品であろう。しかし、東坡が近視であっただの、その妹がオデコであったなどと云うのは面白い。近視やオデコの人にとっては大きな味方が出来た訳であるから。
 東坡の妻は王力の娘で、名を弗(ふつ)と云うのであった。十六才で東坡に嫁いだのだが、東坡はその時十九であった。東坡が三十の時に弗は二十七で先立った。学識の有った婦人であったことは、東坡が自ら起草した墓誌に書かれている。娶った時が十九と云えば如何に東坡でも勉強盛りであった。それなので頻りに読書をしていると、夫人・・と云うのも未だかわいそうな位若い王氏(弗)は、ただ黙って傍らに坐って終日去らなかった。後に東坡が一寸何かを忘れた時に、「エエと、あれは何と云うのだったかナ」と云う調子でフと書中のことを尋ねると、王氏はすっかり記憶していて答えた。それから他の書のことを問うと、皆ほぼ之を知っていた。そこで後に東坡先生も、その敏にして静なることを知ったと云うことだが、実に好い妻を得たもので、勉強相手の女房などは如何にも可愛らしくて好かった。この王氏が死んだ後に、その妹を娶った。死んだ妻は邁と云う一子を遺したから、賢良な人でも有ったのであろう。後妻は即ち同安郡君で、これも立派な人であった上に東坡居士五十八才まで連れ添って、元祐八年に亡くなった。東坡がこの人を祭る文に、「我実に恩少かりし、唯(ただ)穴(墓)を同じくする有らん、尚(なお)此の言を踏まん、嗚呼(アア)哀しい哉」と云っているのは、実に偽りの無い言葉だ。何人も妻を亡くした暁に、「ああも仕て遣ればよかった、こうも仕て遣ればよかった。」と思うものだが、その生前を振り返って見て、吾が妻に対して吾が恩愛の足りなかったことを感じ、そして心悲しく思うこと、免れないものがあったのであろう。これは情の深い人ほど事実の心持であろう。そしてまた今は唯どうする事も出来ない死別の後の、真に愛情が迫り立って来ることを感じて、今はただ墳墓を同じくして此の心を明かそうと思ったのであろう。そこを単に八字で、「我実に恩少かりし、唯(ただ)穴を同じくする有らん」と云ったところは、真に東坡先生が文を論じた時に自ら云った通り、「言尽きて意尽きざる。」もので、至情の到るところを優れて表している。僅か八字に千万無量の思いが籠っている。そして先生の人柄も、王夫人が数十年を先生に侍した有様も、すっかり人の眼に浮かんで来て、まざまざと見える。「こいねがわくば此の言を踏まん、アア哀しい哉」とあるが、その言の通り八年後に先生も終えられたのである。夫人の亡くなった時は先生五十八、日の既に西山に迫る晩年に夫人を喪ったことは不幸に違いないが、十九の年から六十近くまで、賢く貞淑な前王夫人と後王夫人とにかしづかれたことは、実に福が少なかった訳では無かったのである。
 侍妾(側妻)の朝雲は蘇東坡が六十一の時に三十四才で恵州で亡くなった。先生が自ら記した朝雲の墓誌に、「字は子霞、姓は王氏、銭塘の人、敏にして義を好み、先生に事(つか)えること二十有三年、忠敬一の如し」とあるから、十二の時に先生に仕えたので、先生の朝雲の詩に「経巻と薬爈は新しい活計(くらし)、舞衫と歌扇は旧(ふる)い因縁、」の句が有るから、前身が歌舞世界から出た人にしろ、純な可愛いらしい少女の時からその敏慧を見出されて身の回りの世話に使われたのである。かつて東坡が自分の太鼓腹を撫でて、「この腹は?」と女達に問うと、或る者は「満腹の忠義(忠義心でいっぱいです)」と答え、或る者は「錦繍の腸肚(美しい文章で一杯です)」と答えたりしたが、みな東坡の心には面白いとも思われなかった。朝雲は笑って、「一肚皮、時宜に合わず(腹の中は、世間に流行らない考えでいっぱいです)」と答えたので、東坡は笑い崩れたと云う話が伝わっているが、事実かどうか知らないが面白い名高い話である。美しい人だったかどうか知らないが、如何にも聡明で粋なところの有る人だから、さぞ美しい品のある人らしく思える。蘇東坡も盛時には自分でも記しているように家に数人の妾が居たりしたが、辺地に流謫されたりして悲しい境遇になってからは、それ等の妾は四・五年の中に相次いで辞めて去ったが、朝雲は東坡に随って南遷した。その昔、白楽天の妾の樊素も、「春は樊氏に随って帰る」と云う楽天の詩句に拠れば、楽天が耄碌したころには去ったのであったが、朝雲は東坡が恵州に流謫されても猶、随従していたのである。晩年には仏を愛して、比丘尼の義沖と云う者に従ってほぼ仏理を理解していたところから、東坡の詩に、「天女は維摩(無垢)にして総て禅を解す」の句があるのであるが、死に際しては金剛経を唱えて大往生を遂げたと云う。中々超脱したところのある才女である。それで東坡も「汝の宿心の如くに、唯仏之帰(ただ仏となる)」とその墓誌に記している。東坡の悼詩に、「景を駐めて恨み無し千歳薬、業を贈って唯有る小乗の禅、傷心の一念前債を償う、弾指三生後縁を断つ」とあるのも、如何にもふさわしい。朝雲には遯(とん)と云う子が一人いたが育たないで死んで終った。それは東坡の四十九の時で、人生を悟り尽くしている東坡にも、それは余程痛かったと見えて、二篇の詩が作られているが、中に、「帰えり来て懐抱空しく、老涙は水を瀉(なが)す如し」と云う句や、「仍(しきりに)恩愛の刃(やいば)を将(も)ち、此の衰えし老腸を割(さ)く」などと云う悲しい句もある。「母の哭する声は聞くに堪えられない、汝(おまえ)と一緒に死にたいと思う、おまえの故衣(古い服)は尚(なお)架に懸り、漲乳(母乳)は已(すで)に床を濡らしている」などと云う写実的に人を感じさせる句もあるが、朝雲は誕生にもならずに死んだこの子の為に、一入(ひとしお)仏に心を寄せたことであろう。しかし現世は忍土である。会者定離は今更始まったことでは無い。文豪でも詩仙でも運命では仕方がない。前後の王夫人とも別れ、この人の好い朝雲にも別れて、東坡の晩年は淡然泊然として、天命を静観して終わったのである。
 豚肉をよく煮て柔らかくしたものを東坡肉と云う。それは東坡が文火(とろび)でジックリと心長く豚肉を煮ることを可(よし)としたから起こったのであるが、東坡肉東坡肉などと云うと、さも東坡は肉食好きの人でもあったように思われるが、東坡は普通のいわゆる支那(中国)料理党では無い。「元佑四年十月十八日夜、王元直と酒を飲む。薺菜(ナズナ)を啜って之を食らう、甚だ美なり。頗る蜀の蔬菜を憶い、悵然として之を久しくする。」などと自記している。ナズナはいわゆるペンペン草である。つまらないものだ。しかし東坡はこんなもので酒を飲んでいたのである。また同十一月二十八日、「王元直と薑蜜酒(きょうみつしゅ)一杯を飲む。気分よく忽ち酔う。自ら包丁を執って薺青鰕羹(さいせいかよう)を作る。これを食うに甚だ美なり」などと自記している。ナズナと小エビの吸い物である。「紹聖二年正月初五日、成都の舟闍梨(しゅうしゃり)と夜坐す」る。飢えること甚だしい、家人が鶏腸菜の羹(あつもの)を煮る。甚だ美なり」などとある。ヨメナの汁である。甚だ美ではなさそうだ。元符二年三月には儋耳(たんじ)の漁者がフナ二十一匹を売りに来たのを、坐客と共に買って、呉氏の客の陳宗道と云う者に十二因縁の説法などさせて小さな放生会をしている。フナを膾(なます)などにして食ってはいない。元祐八年八月十一日の明け方の夢では、故郷の蔬園の夢を見て、作男が土を運んで池を塞ごうとして働いて、地中から蘆菔(ろふく・ダイコン)を掘り出し、客が之を喜んで食ったところなどを見ている。ダイコンの夢で牛や豚の夢では無い。記恵州土芋と題しては、「丙子の除夜の前両日、夜に飢えること甚だし、呉遠遊が芋二個を焼いて食わせる。美味きこと甚だし」などと記している。老先生も人々と共に自然の羊羹(ようかん)を賞味しているのである。東坡肉は「豬肉頌(ちょにくしょう)」と云う一文で後世にその名が伝わったのだが、同じく「食豆粥頌」もある。豆粥なども賞味しているのである。イヤそれどころではない。先生が自ら「東坡羹(とうばかん)」と名付けてその前書きと頌を作っている。東坡羹は不幸なことに、無風流で油っこい物が好きな後人には支持されずに忘れ去られて仕舞ったが、さぞかし先生の得意なもので有っただろう。それはカブやダイコンや例のナズナなどにショウガなどを加えて煮る上に、甑蒸篭(せいろ)を置いて飯を炊くので、飯が出来ると同時に東坡羹も出来て食えるようになるのである。「東坡居士の煮る蔬菜汁は魚や肉や五味(香辛料)を用いない、自然の甘味があるなり」と記している通り。魚や肉を用いないところが、先生の喜んだところで有ろう。応純道人と云う者が廬山に行こうとした時にその料理法を求めたので詳しく伝授して、現在に於いても知られているのであるが、その調理法の秘訣は思うに釜の縁や瓷盌(しわん)に生の油を少し塗って、汁の沸騰を抑えるところにある。油がものの沸騰を抑えることは、豆腐を造る時に「泡消し」と云うことを油によって行うことでも知られているが、東坡羹はまだ実際に試みたことがないからどんなものか知らない。ただし材料が皆蔬菜であり、かつ調味の味も付けないのであるから、至って淡然としたものであろう。このようなものに東坡羹の名を名付けていることや、前述のように淡泊なものを好むところから考えると、東坡はさぞ脂肪トロトロの中国料理党では無くて、奈良茶粥を可(よし)とした元禄の俳諧党の方に傾いていたようである。東坡羹の頌もまたおもしろい。「甘苦は嘗て極処より回る、塩味も酸味も未だこれ塩梅ではない、師に問う、此の天真の味、根より上り来るや、塵上から来るや」。塵は物質である。根は舌根である。根より上り来るや塵上から来るやと、東坡羹の至真至淡の味の来処を問うところなどは、流石に渓声山色の偈を遺した人だけに洒落ている。しかしそうかと云って、何も東坡は菜食主義者と云う訳では無い。雉(キジ)を賞味した詩を遺していれば、鱸(スズキ)を賞味した詩も遺している。赤壁賦では鱸に似た何だか分からない魚を食している。江瑤柱(こうようちゅう)は大好物だったに違いない。非常に面白い俳諧調の江瑤柱伝と云う一篇の文を遺している。江瑤は我が国のタイラギとは少し違うかも知れないが、マア先ずもってタイラギだ。白玉のようなタイラギに緑の竹の小串を打った江戸の風情は廃れて、東京っ子は豚ばかりを賞味して、たまに之を知った者もタイラ貝などと変な訛を云うようになった。今から七百年前にタイラギの伝を立てている東坡は流石に老先生だ。近所に住んでいればアオヤギの柱でも献上したい位だ。コイやフナなども好んだようで、魚を調理する方法を記しているが、それも唐揚げに調理する現在の中国風のコッテリしたものとは違って、二十余年前にその料理法を試みたことがあったがイヤなものでは無かった。英国のウォルトン翁の酒の肴に負けず劣らずのものだったと記憶している。しかし要するに東坡は淡泊党で、脂肪党では無い。東坡羹の前書きや頌を前に記したが、あれが芸術的になったのが菜賦でカブやダイコンやナズナを一流な調理法で煮て食う、それを立派な文学で一々ありのままに描写して、情に任せて文章にする。何とウソの無い、雅趣ある、自由自在なことであろう。賦は東坡集の巻二にあり、頌は巻二十二ある。
 且つまた東坡がカブやダイコンを食うのは、一ツは貧乏な為でもあったろうが、一ツは殺生が余り好きでは無かった為で、内心では殺生戒を保持したいと思っている。しかし俗人で生身の人間なので、食欲も働いて美味しいものを食う、そこで「食鶏卵説」の中では、「吾久しく殺生を戒めていたが、恵州に於いて忽ち戒めを破り、しばしば蛤や蟹を食らった」と懺悔している。ハマグリやカニを食べたからと云って、それが何であろう。それでも後で食わなければ良かったと思っていたのである。それを程朱学派の儒学者たちは、「晩年の蘇東坡は弱虫になった、雑駁の学なので真に得るところが少なかったそうだ」などとヤボな口から行き過ぎたことを云っているが、老いて心が優しくなるのに何の悪いことがあろう。当たり前の変化若しくは進歩と云うものである。程伊川を東坡が好かなかったので、程伊川側の者はとかく東坡の悪口を云うが、東坡は人情を重んじる人で人情に遠いことは大嫌いな人である。超脱的なことが好きで英雄的なことも好きだが、屁理屈や糞礼儀など人情に遠いことは嫌いで、優美で無い感情を無暗に表わしたり抱いたりすることの嫌いな人である。そう云う人が老いて自然の勢いで生き物に対して慈悲の情が深くなるのに何の不思議があろう。「平生万事足る。欠くところはただ一死」と云った豪気な人が、年老いてからハマグリやカニを食ってオヤオヤと悔いたからと云って、それに何のおかしなことが有るものか、却ってそこに自然の情を見るべきである。西湖の秋涸れに東池の魚が苦しんでいるのを見て、網師を呼んで之を西池に移してやった。その夜の詩が二篇有るが、その中に「蘇東坡また是れ可憐の人、泥砂を披抉し細砕を収める」と云う句がある。真(まこと)に東坡是れ可憐な人也である。今年は、ここ四・五ケ月、九段の牛ガ淵の辺りから御堀に添って電車で麹町の方へ通ると、御堀の対岸の石垣が震災後に崩れたままで未だに修復も出来ないで、また御堀の水も甚だ汚く且つ涸れて点々と白い物が泥の上に見えている。目が悪いので、その数百点の白い物がなんであるか分からなかったが、傍の人に訊くと人々は口々に、「鯉です、鯉です、」と云った。七百年ほども進歩した今の世では、いわゆる蘇堤を築いて西湖の美観を修復したような閑事業をする東坡先生のような人は居なくて、皇居に近い御堀の石垣が崩れても四年も五年も捨て置いて顧みないで、東池の魚を西池に移すような愚なことをする者も無く、汚したり涸らしたりした御堀の中に数千の魚が白い腹を日に曝して醜く腐らせても、そんな小さなことに心を動かす人も無いエライ現代気質を現わしていると、丁度その時所持していた東坡集の巻八十の放魚の詩に思い合わせて、一種の感を起こさずには居られなかった。それはとにかくとして、蘇東坡にはまた岐亭五百の詩がある。その詩の叙に依れば、元豊三年正月、東坡が黄州に流された時に、陳季常が白馬青蓋で岐亭の北二十五里の山上まで迎えに出て来た。その翌年正月にまた行って季常と会ったが、東坡は季常が自分をもてなす為に多くの家畜を殺すことを恐れて、殺を戒むる詩を作った。季常はそれからは教えを守って二度と殺すことをしなかった、とある。五首の詩のその第一首は、季常の盛饌歓待を受けた時のもので、「掌を拊(う)って隣里を動かし、遠村の鵝鴨(がおう・ガチョウとアヒル)を捉える。房櫳(ぼうろう。部屋の中)に器声鏘り(きせいなり・器の音が鳴り響き)、蔬果は巾幕に照る」などと云う句がそれを表しているのである。が、ここでも東坡の趣味は現れていて、「久しく聞く蔞蒿(ろうこう・ソバ)の美、初めて見る新芽の赤きを」などと云う句があって、ソバを賞味している。その第二首は即ち戒殺の詩で、「我は哀れむ籃中(らんちゅう・籠の中)の蛤、口を閉じて残り汁を護るを。また哀れむ網中の魚の、口を開いて微湿を吐く」と云うのから始まって、盧公、王子を引用して、「御馳走が豊富でなくてもよい。貧乏も却って好い。豪華も未だ可では無い。」と多数の生き物を殺すことの感心できないことを歌っているのである。季常は東坡の友であり弟子である人だが、東坡の言葉は季常を動かし、岐亭の人の多くもこれに感化されて肉を食わない者が出てきたと云うのは、東坡と季常の二人の仁慈の美が人を感動させた結果である。なおまた東坡にガチョウについての雑文がある。云う、鵞(が・ガチョウ)は能く盗人を警告する、銭塘の人は喜んで之を殺し日に百鵞を屠って之を市に売る。私が湖上から夜帰り屠者の門前を通り過ぎると、群鵞は皆叫んで声は街路に満ち、訴えるものが有るように聞える。私は凄然とし、その死を購(あがな)おうと欲する。ついに之の置く所の無いことを思い断念する。しかしながら今になっても私の心に去来するのである。鵞は能く盗人を警告するだけで無く、また能く蛇を撃退し、その糞は思うに蛇を殺す。蜀の人は園池に鵞を飼う、蛇は即ち遠く去る。この二ツの能力を有していても、死を免れることが出来ない。且つ、雨乞いの生贄にされる災厄もある。悲しいでは無いか。どうして人々が逸少のように成れようか。」、逸少とは即ちガチョウを愛した王右軍のことである。文中の、「しかしながら今になっても私の心に去来するのである。」と云うところ、その真情は人に迫るものがある。「徐州の殺狗を記する」の文には、「孔子曰く、弊(やぶ)れたる帷(とばり)の棄てざるは、馬を埋める為なり、弊れたる蓋(がい)の棄てざるは、狗(犬)を埋める為なり」と権威ある孔子の言葉を引用して、「死するも猶、当(まさ)に埋めるべし、その肉を食うに忍びず、況や狗を得て殺してはならない」と断言して、犬を殺すのはケシカランと主張している。ガチョウを愛して死を購おうと欲し、犬を哀しんで死猶埋めるべしと云っている。この心の優しさから、晩年には殺生を戒めるようになったのである。その猶鶏肉などを食っている時に際しても「薦鶏疏」が有って、ニワトリの冥福を祈った文を遺して仏事を僧にさせている。仏に媚びると云って批判するのも勝手だし、理屈に合わないと云って嘲笑するのも勝手だが、この心には堪えられないものがあって、この文やこの詩やこの事を為したのも、その人柄がそうさせたのである。「病気で死んだ牛の肉などを食らって、田舎酒を呷ってクダラナイ気炎を揚げる奴は相手に出来ない。」と此の性情の美しい人が云ったのは、実にホントのことである。「虔州に孤魂滞魂を推薦するの疏」を作ったり、「枯骨を葬るの疏」を作ったり、「恵州に枯骨を祭る文」を草したり、「徐州に枯骨を祭る文」を草したり、自分が室を築こうとして整地したところ古い塚が出て来たので、急遽命じて埋め直させて、「古塚を祭る文」を作ったのも、皆この優しい情の発露からである。その思想が仏教に傾いていたからでも無く、雑学のために徹底した信条が無い為に老いて軟弱に成ったのでも無い。成程東坡は仏教を認めている。しかしそれも卑小な小乗的見地を脱せずに輪廻応報を恐れて、小善や小戒に拘りそれを大切にすると云うのではない。虚実は不明だが、自ら姓は秤(ひょう)なりと称して、「天下老和尚の軽重を勘破するものである」と云ったと云う話さえ伝わっている位である。仏教中の高深幽奥な楞伽経や華厳経さえ学び切っているのである。参寥や仏印等の高僧とも友達付き合いであることは、陶淵明が恵遠に虎渓橋を渡らせたような関係と同様である。何で仏に媚びる為に放生の功徳をするような卑(ひく)い見地に立っていよう。斬描の公案などの禅問答を笑い飛ばす境界に至っていたらしいのである。老いて慈悲心が拡大充実することが雑学で信拠の無い為ならば、雑学無信拠の方が化石的な哲学者よりもどれ程趣きが有って有意義だか分からない。
それ等のヤボな議論はしばらく措いて、蘇東坡のこの優しい性格や感情の傾向はその母からの影響が大きいと思われる。東坡の母は優秀な東坡兄弟を持つだけでも、その賢婦人であることを伺い知ることが出来るが、と同時に慈悲深い立派な人であったことは疑えない。東坡が幼い時に居た書堂の前には、竹柏や雑花が叢生して庭に満ちていたが、いろいろな小鳥がその中に巣を作っていた。母の程氏は子供や下男下女に注意を与えて、決して小鳥に危害を加えさせなかった。それで小鳥も安心して低い枝に巣を作って居たので、そのヒナを見下ろして見ることができた。それなので桐花鳳(トウカホウ)と云う羽毛の奇麗な見ることの少ない仙禽のような鳥さえやって来て、人を恐れずに馴れ遊んで居るので、里人も変わった事だと云ったことが伝わっている。東坡もその弟の轍(てつ)もおとなしい好い子であって、能く母の教えを守ったことと、母の程氏の慈愛誠信が小鳥に及んでいたことが窺い知れる。この程氏は東坡の二十二才の時まで存命した。東坡の性格の優しい一面や感情の動き方が、この懐かしい程氏に基づくところが有るのは疑えない。また程氏は学問もあり、見識もあり、凛然として気節の有る人であって、東坡の幼時はこの母から歴史の知識その他を得たのであって、程氏が漢の范滂伝(はんぼうでん)を読んで太息(ためいき)した話は、東坡の弟の轍が作った東坡の墓誌、「欒城後集」の巻二十二に載っている。范滂は後漢の人で、濁世を歎いて之を清澄しようとする志を持つ人であったが、その清廉剛直のために却って罰せられて仕舞った。その罪を受ける際の范滂と母との決別は涙の出る話であって、范滂の母が死刑にされる我が子に向って、「汝(おまえ)は今、李杜(李膺と杜密は当時の名賢)と名を等しくする。死もまた何ぞ恨もう、既に令名有り、また寿考(寿命)を求めても両方を得られるであろうか」と云ったのは名高い話だ。子は節を通して死に、母はその正しいことを歓ぶ、実に悲壮で凄惨な場面である。東坡の母は毎日東坡に読書を教えたり、古今の歴史を語り聞かせたりしたのであるが、程氏が范滂伝を語り聞かせた時に、その事が母子に関することであったので、思わず感動したのであった。蘇東坡はその時僅か十才の子供であったが、その話を聞いて感じたのであろう、母の様子を見て、「軾が若し范滂に為ったら母さんは許して下さいますか」と訊いた。すると程氏は、「お前がよく范滂に為るならば、何で私が范滂の母に為れないことがあろうぞ」と語ったと云うことである。そこで東坡は子供心にも奮励する。母は喜んで、「吾に子有り」と云ったと云うが、東坡の父の蘇洵も堅確な偉い人であるが、母もまた凡常の人ではない。このような母の血を受け感化を受けた東坡が確固とした、そして優しい情緒の所有者だったことに何の不思議が有ろう。
 飲食の事から話が少し横道に逸れ過ぎたが、要するに東坡の趣味は世俗的で無く、そんなところは通り越しているのである。豚や牛などの脂濃いものを嫌ったわけでも無いだろうが、コテコテした御馳走を悦ぶところを通り過ぎて、カブでもダイコンでも、チョイとその「扱い」に味のあることを嬉しがる境地のようである。滋養だの、珍奇だの、馬鹿手数がかかったり、クソ贅沢であったり、紅楼夢に出て来るナス一ツに沢山の鶏肉を用いるような、又は田舎成金が大御馳走するような大騒ぎ、そんなことは一切好まないように見える。そして生き物の生命を取ったりするのを欲しない、どちらと云えば野菜の方に傾くように見える。思えば陳眉公や袁随園や李笠翁などの支那の文人で、料理本を作っている者もあるが、たいがい我が国のいわゆる茶人よりも低いように見える。東坡は料理本などを作るほど小さな人では無いが、偶々その飲食に関することが書いてあるのを見ると、おのずからその中に衆俗と趣向を異にするものがあるように思える。柑橘(ミカン)の為に伝を立てたほかに、茘枝(レイシ)や龍眼(リュウガン)や檳榔(ビンロウ)などの果物に関する詩文もチョイチョイ見えるが、それは南方の辺地へ流されたことに拠るのだろう。
 酒に関して東坡の筆は随分多く費やされている。実際に東坡は出来る限り毎日酒を飲んだらしい。しかしそれは極めて少量で、自記している通りどちらかと云えば薬物視して飲んで居たので、その飲酒説に書かれている様であったらしい。酒量も勿論劉伯倫や李太白などには及びもつかず、人に悪強いされるなどは大嫌いであった。至って品の好い飲み方であったのだ。それで自然と随分興味有る話が出来ている。それは酔道士の図に東坡が跋を付け、「僕もと酒を喜ばない。正父の酔道士の図を観て甚だしく杯を執って耳を持つの翁を畏れるからである」と書くと、後に章子厚がその跋を見て、「僕、酔道士の図を観て巻末の諸君の跋を広げて見る。東坡の跋に至って、発謔絶倒(その戯れに大笑い)する」と云う跋を書いた。一日として杯を執らないことは無いと記した人が、僕素不喜酒も可笑しいが、余程酔いしれた風情が描かれてあったものと見えて、杯を執った道士の耳を持つ翁を東坡は畏れたのであろう。子厚は思うに酒は東坡より余程強いので、そこで東坡の跋をみて発謔絶倒と書き付けたのであろうが、他人の跋を批評した此の跋もおかしくて洒落ている。するとその後また東坡がその画を観て、子厚の跋を見たので再び跋を書いた。「熙寧元年十二月二十九日、再び長安を過ぎ、正父と母清臣の家で会い、再び酔道士の図を観、子厚の書き付けたところを見て、小生の為に一噱したことを知る。子厚の如きは耳を持たれたいと思って叶わない者なり。他人が見ればまた一噱するだろう。時に清臣と堯と子由と共に観る。子瞻書す」とやった。跋でやり合っているのなどは、実に洒落ている。子厚の如きは耳を持たれる隙も与えず、グイグイ飲む方と見えて可笑しい。ところで正父が面白がってそれを子厚にまた見せたら、子厚がまた書いた。「酒の中はもとより味多し、これを知る者の少なきを恨むのみ。持耳翁などは正に甚だ珍しい。子瞻(東坡)の性質は山水を好むが、なお仙游潭を渡ろうとしない、まして酒に於いて味を知ることを畏れるのもよく分かる。正父が豊国に赴く時、子厚は武進の令たり、またこれを書いて子瞻の跋に継ぐ。己酉端午後一日」と書き付けた。何のことは無い、大酒党と小酌党との揶揄の試合のようだ。仙游潭は景色の好い所であるが危険なところがあるので東坡は渡らなかった。それを子厚は挙げて、東坡が大酔淋漓の境地に入り酔郷の真味を味わうことの無いことを云ったのでもあろう。実際東坡の性質は馬鹿飲みなどを喜ぶのでは無い。チョット赤壁の賦などを見ると痛飲鼾睡(つういんかんすい)したようでもあるが、それも文章をよく味わうと洗盞更酌(杯を洗って更に酌む)などという文字で分かる通り、鯨飲派では無くて上品に飲む方である。東方朔が乱酔して金殿の中に小便を垂れ流したり、李白がクダを巻いて高力士に靴を脱がさせたなどと云う、そういう畑の人などを却って苦々しく思う方の人であったろう。それだから「中山松醪賦」に顚倒白綸巾、淋漓宮錦袍、のような句は有っても、それはただ松の酒を称揚しただけで有り、「酒障賦」、「濁醪有妙理賦」、「酒子賦」等の文字は有っても、どの賦にも酒豪を衒って礼法を蔑視するような気味は見えないで、却って「濁醪有妙理賦」では、「我眠らんと欲す而も君且つ去らば(陶語)客有るも何ぞ嫌わん、人皆励む而も我聞かず、それ誰か敢て接せん」などと云う句が有って、まことに和(やわ)らかでおとなしい酔いを讃美しているし、「酒子賦」では、酒の未だ熟していない酒子と云うものを王介石と許かく(王偏に王)の二人から贈られて、その淡く薄く力弱いのを喜んで、「吾稺酒(ちしゅ・幼い酒)の初めて泫(げん・滴)するを観るに、嬰児の未だ孩(がい・幼児)たらざるがごとし、その溢流(いつりゅう・注がれ)して蒼空する(流れ出る)に及んで、また侍女のまさに笄する(化粧する)がごとし」などと骨を折って面白く称賛しているし、また、「吾飲むこと少なくしてしかも即ち酔う、百榼(ひゃくこう・百杯)を飲むと同じように酔う」と自ら少量であることを云っている。これ等の酒の賦や又多くの詩文の中に、酒のことの多いのを見ると、東坡も李白や劉伶などのような人のように感じられるが、それは「老饕賦(ろうとうふ・老いを貪るの賦)」が有っても別に饕餮漢(とうてっかん・大食漢)でも無く、蘇東坡肉の名が有っても菜食好きな人で有ったようなものである。決して下品な噇酒漢(とうしゅかん・大酒飲み)では無かったのである。
茶に関しては東坡の筆墨は甚だ多く費やされている。茶が好きであったこと、その香味や風韻を悦んだことは疑うことが出来ないし、その証拠を詩文や雑著に求めれば余りにも多すぎる位である。従って水を語っていることも甚だ多い。張又新あたりから水を語ることは雅趣ある人のするところとなって来て居るが、人に最も大切なものは水と空気である。それを後廻しにして生活を語ったり趣味を語ったりするのは豚の文明である。松花堂や祐庵や庸軒のような人ばかりが水を語るべきでは無く、低くない生活を願うならば第一に水の論や空気の話に立ち入らなければならないハズであるから、水の品の話が高雅な人に提唱されるのは至極当然なことで、支那には非科学的ではあるが昔から著書もあり談論もあるが、我が国では書籍と云ったら乗化亭の名水品彙位のもので小恥ずかしい気がする。東坡が折々に水を語っているのは流石に東坡居士である。唐の人は茶の中にショウガを入れたり塩を入れたりしている。西洋人は砂糖を入れたり牛乳を入れたりしている。人の好みであれば、酢を入れても苦味チンキを落としても味噌を点じても塩辛を投げ込んでも、咎めることは出来ないが、唐の薛能(せつのう)の詩句を引用して東坡は唐人が塩を茶の中に入れたりしたことを不可としている。嗜好の相違は仕方ないもので、腫物(はれもの)のカサブタは干物の味がすると云って、他人を血だらけにしてそのカサを食った人さえあるのだから、何とも致し方は無い、傍からとやかく云うのはヤボなようなものだが、千年も前の人が塩を入れたように二十世紀の人は砂糖を入れて茶を賞味する。その中間に東坡は東坡の好みを立てている。我は彼では無いのである。自分の飲みたいようにして飲んでいるところが好い。
 文房四具に就いては恐ろしく心を寄せている。これは文雅の人はそうあるべきことだが、諸葛氏の筆、澄心堂の紙、李氏の墨、端や歙(きゅう)の硯と云うように、いろいろ様々な物について批評やら感想やらを記していること夥しいものがある。筆だけでも、宣州の諸葛氏の筆を始めとして、石晋の筆仙の筆、銭唐の程氏の筆、郎奇の筆、徐偃の筆、呉説(ごえつ)の筆、嶺南に佳筆の無いこと、南方の兎毫(とごう)の役に立たないことを記している。おもしろいのは徐偃の筆を試したことを記して、「筆鋒塩を着ける曲蟮の如し、紙上に詰曲する(筆の勢いは塩を着けたミミズように紙上にクネクネする)」と僅か十一文字で有筋無骨な筆を形容し尽して、数百年を隔てた現代の人に黄山谷が持っていたその筆がどのような物であったかを知らせて実に文章は自在である。蟮はミミズである、また流謫地で所有していた筆が皆腐敗したため鶏毛筆を使うようになったが、手にしたが劣悪でどうしようもなくて、「魏元忠のいわゆる窮相の驢馬に騎(の)りて、脚は鐙に揺らぐ者の如し」と罵っているあたりは、流石の書家も鶏毛筆を使いかねて忌々しがった様子が眼に見えるようである。硯に就いては奇談がある。建州の鳳凰山の石で王順と云う者が硯を作り始めた。それに東坡が鳳凰味と云う名を与えて、且つ戯れにその底に記銘して、「そぞろに龍尾をして牛後を羞じしむ」と云った。龍尾石は歙州の名石だ。龍尾鳳味で、牛後鶏口の古語に因んだ一句を作ったのだが、歙人は大いに忌々しがって、そのご東坡が人を介して歙硯を求めさせたところ、歙人は、「鳳味石をお使いになれば宜しいでしょう」と云って、ついに東坡に歙硯を与えなかったと云う話である。一句の洒落が歙人の恨みを買ったことでも、東坡が当時の文墨界に重きを為していた様子が伺われる。墨に於いては、東坡は数百丁を蓄えていて、閑な日にはこれ等を試して見ることを娯楽(たのしみ)にしていた。交友にも李公麟などと云う墨好きがいて、人が佳い墨を持っているのを見ると直ぐ掠奪して仕舞って、部屋中に墨を懸け満たしていたなどと云う人もあり、蘇東坡自身も黄山谷の使いかけの墨を強引に奪い取ったりしている。それどころで無く、流謫地の儋耳に居た時に金華の潘衡と云う墨作りが儋耳に来たので、東坡自身が煤裀の精良なものを採る方法を教えて、それで墨を作らせて海南松煤などと云う印文を付けて、李廷珪や張遇の墨にも劣らないと大よろこびでいたが、巳卯に十二月二十三日に煤を採取する部屋からボヤを出して殆んど全焼しようという火事を出した。そこで流石の物好きも閉口して遂に墨を作ることを止めたが、それでも佳墨を大小五百丁得たので、「以て一世を了するに足る、よって以て人に遣(おく)る、知らざるところの者は何人なるか」と云っている。工人を使って墨を造り、火事を起こして全焼しそうになるとは、実に風流好事も甚だしいもので、しかも老境に五百丁もの佳墨を得ても、使い切れないなどと自覚しているところなどは洒落たものだ。それより墨に就いての東坡の傑作は、「憑当世は西府に在って潘谷に墨の銘品を造らせて、枢庭東閣と名付ける。此の墨がこれである。阮孚云う、一生まさに幾ツの履(くつ)をはくだろうかと。僕云う、まさに幾ツの墨を用いるか知らない、人常に墨を惜しんで磨(す)らない、終にまさに墨の磨る所と為るであろう」と云ったもので、「墨、人を磨す。」の一語ほど警抜沈痛な好語は無いであろう。石昌言と云う者が李廷珪の墨を蓄えていて人が使うことを許さなかったが、昌言は死んで仕舞って墨は勿論無事だった。或る人が昌言の存命中に戯れて、「子(貴公)墨を磨せず、墨まさに子を磨すべし」と云った。その或る人が蘇東坡で無くて誰有ろう。李廷珪の墨は貴きこと金や宝石のようで、今でも真実は分からないが幾丁かは世に在ると云うが、それらの墨に今まで何十人何百人の人が磨られて仕舞ったことだろう。人が墨を磨らないでいる、墨が人を磨ってしまう、と云うのは実に妙言だ。同じ意味を東坡が詩の句にした、「人墨を磨するに非(あら)ず、墨人を磨す。」の一語は、随分悟りの悪い人をも凄然とさせるものがある。人銭を使わず、銭人を使う。昔胡椒(コショウ)を八百石を蓄えていた馬鹿者が居たが、山が平らになるまで生きて居なくては八百石の胡椒は嘗め尽くせない。実に世には墨に磨られている者が多い。が、それを分かり切っていて、そして沢山の墨を造り、「以て一世を了するに足る、よって以て人に遣る、知らざるところの者は何人なるか」と云っているところは、中々好い。
 儋耳に謫居した東坡は随分悲しい朝夕であった。賢妻の王氏は既に死んで、ただ一ツの老後の手中の玉と愛した末子は既に死んで、その母の朝雲も疫病で後世(あのよ)へ奪われ、王氏の生んだ末の子の過と云うのと、六十二才の老いの身を七月初めの暑気なお烈しく残る南方の辺鄙(へんぴ)な土地に運んだのである。初めは官舎を借りて風雨を免れたが役人がいけないと云って追い立てた。で、仕方なく子の過と天慶観の隣に狭い土地を買って小さな庵を結んだ。金が無いし人手が無いので惨憺たるものであったが、東坡を慕う十数人の学者の手助けをうけて、「泥水の役目を自らする」とあるから、左官仕事さえ仕たのである。儋耳は藷(イモ)を食料にすること殆んど米の十の六というような土地であるから、先生も随分みじめな朝夕を送っていたことが想われる。弟の子由の消息さえ遠方の地なので永らく途絶えたから、憂いの余りに自ら易を立てて渙の内三爻変を得て考えているところなどは、流石に達観証悟(たっかんしょうご・悟り達観している)の先生に在っても涙ぐましい情況である。物思いをするのが人間ではあるが、困り果て疲れ果てた極みに海南の辺鄙な地に在って、兄弟の情合いが深い先生が大切に大切に思っている子由が、これも罪を得て雷州に流謫されているその身の上を思い煩ったのは自然なことである。しかし先生のことであるから、呉子野や姜君弼(きょうくんひつ)等の人に時々訪ねられたり、老いて且つ貧窮して仕官の心も灰になっている符秀才を友としたり、謙虚な気持ちで田舎の人達とも交際したりして居て、そして自分は書伝を作って上古の絶学を推明することを日々の楽しみとされていた。田舎の人達もこの外を飾らない正直で高くとまらない博学高才の、如何にも自然な老先生には尊敬の情を抱いたし、また心安く慣れ親しんだのである。先生はいわゆる東坡笠を被って瓢箪を提げて哨遍の歌を歌いながら田圃の間を歩いて黎子雲を訪れたりしたのである。ある時、我が国であれば飯鉢(おはち)を右手に大薬罐(おおやかん)を左手にして、野良仕事をしている人達に昼食を持って行く七十ばかりのお婆さんが、先生に行き会った。お婆さんは皆から先生が昔は翰林学士で立派なお役人であったが、今はお気の毒にこんな辺鄙な土地で見すぼらしい生活を居られるのだ、と云うことを聞いて知っていたのだろう、老婆の素朴な同情心から慰める積りであったか、「旦那様もハア昔の栄華は一場の春の夢となりましたナア」とやらかした。東坡先生もほかに挨拶の仕様もないので、「アア、ホントにそうさ」と頷くばかりであった。なんぼトボケタ婆さんでも、面と向かって先生にそんなことを云ったので、里人はそれからは婆さんを春夢婆さんと呼んだ。東坡の詩に換扇惟逢春夢婆の句があるのは、そのお婆さんのことだと云うことである。又、先生の詩に、「父老争着烏角巾、応縁会現寧官身、渓辺古路三叉口、独立斜陽数過人」とあるのも、いわゆる東坡巾を被った先生が、白鬚朱顔で田舎路に居られる様子を写実的に映し出している。諸黍氏を訪れた時の詩に、「半醒半酔諸黍を問う、竹刺藤梢歩々迷う、ただ牛矢を尋ねて帰路を覓(もと)む、家は在り牛欄の西また西」とあるのも、牛の糞などの落ちているところを、愛犬の烏喙(うかい)を連れて歩いている先生の姿が浮かんでくる。烏喙と云う犬はその名から想像すると、西洋犬のように口の突き出ている、鼻の長い利口そうな顔つきの犬だが、どれほど淋しい先生を慰めて居たことであろう。謫居の三適と云う詩で考えれば、朝夙(はや)く起きて、歯の疎(あら)い櫛で髪を理(おさ)める。それが一適で、「老櫛我に従うこと久しい、歯疎にして清風を含む。一洗耳目明らかに、習々万竅(きょう)通ずる」と云う句にも窺い知れる。昼はまた安穏に午睡を取るのが一適で、「身心両(ふた)つながら見えず、息々安く且つ久しい」と詩にある通り、夢でもなく覚めるでもなく身心両忘を楽しむ。夜臥濯足がまた一適で、「瓦盎(がおう)深さ膝に及ぶ」温湯の中へ足を浸して之を濯(あら)い、「天低くして瘴雲垂れ、地薄くして海気浮かぶ」不健康な土地の夜を安らかに送っていたのである。濯足、午睡、理髪、ただこれを夜・昼・朝の三適としている。皆これ他の助けの必要は無いのである。何と云う幽かな、淡い、静かな、清い、おとなしい取適の方法であろう。殆んど人の世の業繫(ごうけい・業がこの世に繫ぎとめるもの)を解脱しているのである。妻無く、妾無く、婢僕無く、衛生劣悪な流謫の地で、孝心の深かい末子の過を相手に、迫らず懼れず悶えず惑わず、悠然として自らを保って月日を送って居たところは、流石に英邁の資質を抱き、超俗の域に至っていたと云うべきである。
 当時のそんな辺鄙な悪地に置かれたのは、もとより死地に置かれたのである。しかし寿命ある者は車から墜ちてもケガの少ないことを荘子が指摘したように、道理に達し天命に安んじて、困苦の中でも詩を楽しんでいた老先生は、別に何事も無く日を送られた。それは確かに都の人々に不思議に思われたのだろう、都では奇怪な風説さえ生じた。人は自分の理解の及ばないことに対しては奇妙な想像を押し被(かぶ)せて理解したがる傾向があるものである。そこで都では、蘇東坡は道を得て小舟に乗って復(また)帰らないと云う風説が立った。尤もその前に広州に流されて住んでいた時も、丁度曽子固が死んだ時に東坡も同じ日に死んだと云われたことがある。東坡の自記した文にそのことが出ていて、「今日広州より来る者があって云う、太守の何述が、吾(東坡)が儋耳において、ある日忽ち失去し(居なくなり)、独り道服が在るだけであったと云う」とある。そして「呪うようなこんなことを云われるのも、わが運命である」と東坡は書いている。この何述は都の風説を伝えて噂したに過ぎないが、何述は即ち高述では無いだろうか、何と高は声が近い、高述ならば東坡と同時代の人で余り有名では無いが、東坡の書を真似て真を乱した者で、趙子昴の弟子で子昴のような字を書いた郭天錫や蕫其昌の弟子で蕫其昌の御用を承って贋筆代筆した呉楚侯や我が国の太田蜀山人の弟子の岡田文宝亭と同様に、真似をして真を乱したことで現在にその名が伝わっている者だ。とにかく東坡はそんな噂をされたことは、戒禅師の生まれかわりだと云う説と共に一ツ話である。もちろん仏理にも精通していたから、戒禅師再生の話も自然に生じたので、仙道を好んだところから得道入海の説も自然に起こったのであろう。それでなければ仙風道骨のある人が、海南島の悪地に悠然と月日を送り時に仙道を語ったりしたところから、そう云う噂が起こったのでもあろう。
 東坡は実際に煉丹の事をも試みたのである。金丹の道などを東坡ほどの人が信じることが有ろうかと云う人があるかも知れないが、それはその人が丹道と云うものを知らないからである。東坡はたしかに丹を煉(ね)ったのである。丹を煉ったからと云って、仏に参じたからと云って、何を怪しむことがあろう。勿論丹を煉ったと云っても、始皇帝や漢の武帝や淮南王劉安などの跡を追って、不老不死の痴望を抱いたのでは無い。死と云うものが、今の一息の次に来るかも知れたものでは無い、と云うことを分からないようなそんな間抜けな人では無い。また東坡の頃の趙抱芳や徐登や張無夢や朱元経などは皆立派な仙家であったが、何れも百才近くで確かに死んで仕舞ったことを東坡が知っていたことは、その雑記の文に拠っても知ることができる。しかし東坡は煉丹の道を得て、これを行おうとしたことも明らかである。丹道は易に通じる、とは云わないが、易を借りて丹を語れば丹道は理解しやすい。易理を知る者にあっては、丹道も理解することが出来るのである。東坡は易解を作っているほどである。そこで仙家煉丹の話を受けても直ちに悟れたのであろう。弟の子由に宛てた「竜虎鉛汞説(りゅうこえんこうせつ)」を見れば、東坡が丹道を理解して、これを実修しようとしたことは確かな事実だ。私は何も好んで有もしない話を出して、この大詩人、この英邁な人を貶めるのではない。しかし東坡が丹を煉ろうとしたことは、ある意味甚だ哀しいことである。弟の子由に宛てた語の中に、「吾今年すでに六十なり、名も位も破れ散り、兄弟は隔絶し、父子は離散し、身は蛮夷に居て、北に帰る日は無い、区々たる世味、亦知るべし」と云っている。区々たる世味、亦知るべし(取るに足りない日々を送っている)と云うところに、無限の凄涼の情と英邁の気と幽玄の感と高明の念の混融錯綜するところが看て取れる。煉丹の道が小術であるか否か今は論じないが、その期するところは生死の根源に立って乾坤(天地)の起処(始まるところ)に遊ぼうとするのである。その道を修得することが何で悪いことであろう。しかし二程(程明道・程伊川)一点張りの朱子学の徒が東坡を飽き足らなく思うのは、東坡と伊川との相容れないことと、東坡にこういうところがあることに因るのである。けれども程朱の学(朱子学)は何だ、堯舜以下周公・孔子の学にあんな静坐歛気(せいざれんき)の教えが有るか、崋山の道士の涎(よだれ)や道教が混じって居るではないか、むしろ蘇東坡が直ちに坎離龍虎の説(神仙の術)を修練したことの方が公明である。程朱に恩を受けることの多い私等が、今俄かに程朱に背く気は勿論無いが、程朱の末派が独り自らを高いとして他を排撃するのを、些か飽き足らずに思うのである。坡翁煉丹何ぞ病むに足らんやである。
 このようにして東坡は六十五才まで儋耳に居たが、元符三年に詔(みことのり)があって廉州に移され、それから又永州に移り、朝奉郎に復帰し、成都玉局観提挙にされたが、旅中の真州で瘴毒に罹患して常州で病死して終った。「文体の渾涵光芒は百代に雄視する」と宋史に記されたこの人の一生はそれで終わったが、高宗の時になって太師を贈られて文公と諡(おくりな)された。(②につづく)

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