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幸田露伴の随筆「潮待ち草27・28」

二十七 履と路と
 「説文(せつもん)に精しい某老人は、人が漢詩を作ったと云って示すのを見ると、手に取るや否や、この字は書き間違っている、この字はこのように書くべきだ、又その次の字は何と云う字だ、このような字は全く無い字だ、有りもしない字を書いて恥じることを知らないのは愚かだ、サテサテ今の若い人の字を知らないことには驚き入ったなどと云いながら一々指摘して、七言絶句一章二十八字の中の九字十字までも難詰攻撃し、詩の巧拙は度外視してひたすら字を論じるのを常とする。漢詩を作る人の書いた文字を見てさえ、その誤りの多いのには我慢がならないと云うほどの人なので、まして、てにおはの使い方に間違いは無くても、それほど文字には拘らない歌人などが書いたものを見れば、その誤りの多いことに、どんなにニガニガしく思うであろうことか、ホトホト測り知れない」と老人を知る者は云った。「又、文字にウルサイ翁のように語法にキビシイ人がいて、新聞の一二行を読み進む間にも、早くも眉を顰めて、アッ、間違い、間違い、このような係り結びの語法があるか、又ここでは、つると言うべきなのにぬると書くとは何たることか、嗅ぐのぐは濁らなくてはいけない、欠くのくは清(す)むべきなのに、奥州訛りのように欠ぐ欠げとワザワザ濁音にするとは片腹痛いなどと、五ヶ所も六ヶ所も誤りを見付け出しては、責め罵るのを常としていた。それなのでその人は、漢学者が書いた仮名交じりの文を見て、此奴(コヤツ)笑わせる。言霊(ことだま)の幸(さき)わう国に生まれながら、言葉の遣い方を知らないと見える。と云わんばかりにあしらって、その文意の可否などは少しも問題にしない」と、その人を知っている人は語った。
 なるほど文字を用いる以上は、噓字や誤字などを書いてはいけない。語を用いる以上は語法に随うべきなのである。しかし、文字は文字の表す意味のための文字である、語法は語の用いられた迹から分かる法である。足のために靴があるのである、靴のために足があるのではない。人が踏みならしたために生じたのが道路である、道路のために人がその道を行くべきなのではない。文字は靴である、語は道路である。もちろん靴も道路も天から定められたものでは無い、国によって異なり、時によって変わる。また人によっては新しい形の靴を造ったり新しい道路を造ったりすることもあるだろう、こだわるのは愚かなようだ。しかし空中を行くことは未だ叶わない世の中である、靴も道路も必要ないとは狂った言い草だ。好みの靴を履いて好みの道路を行くが善いのである。他人の靴の形を論じて、自分の靴の底抜けに気付かず、他人の行く道の迂回の多いのを笑って、自分の道の石の多いことに無頓着なことなどは、愚かなことである。

注解
・説文:「説文解字」。中国・後漢の時代に許慎によって作られた最古の漢字字典。

二十八 好み
 緊(きび)しく足を巻いて縛り、強いて小さな履(くつ)をはいて、そしてその足の小さいことを誇りとするのは、支那人の愚かな風習である。その国の人から見れば小さい履をはいているのは、大層しおらしくて優しく好ましく見えるだろうが、傍目(はため)にはこの上もなく愚かしく見えて、あの履さえ破り棄ればどんなにか快適になれるのに、好んで自然に逆らって身を苦しめるとは何たることかと、憐れに思うだけである。しかし支那婦人の纏足(てんそく)の陋習と同じような事は何事にもあって、しかも支那婦人自身がその誤りに気付かないように、人は皆自分の陋習に気付くことはない。我が国の演劇の動作を見よ、また義太夫の語る声を聞け、その自然に反して自ら好む奇異な形の履をはいた状(さま)が、明らかに見えるではないか。

注解
・緊しく足を纏い縛って:纏足のこと。


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