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幸田露伴の随筆「潮待ち草47」

四十七 支那の諺
 支那(中国)の字書と韻書の用語例を照合して諺の字義を考えると、一は民間伝説の意味があり、二は俗論の意味があり、三は我が国の言葉で云ういわゆる諺の意味がある。「諏訪湖の氷は、狐がこれを渡れば、人もこれを渡ることができる」云うような我が国の民間伝説も支那においては諺と認められ、「九尾(きゅうび)の悪狐(あっき)が化けて殺生石となった」と云うような譚(はなし)も諺として認められるようである。一の民間伝説の意味では、酈道元(れきどうげん)が「水経註」で、「鳳林は山の名である、五峰が並んで聳え立っている。古老の云い伝えでは昔鳳鳥が住んで居て、飛んで五峰に遊んだと云う。それでこの名がある。」と云っているのがその例である。二の俗論の意味では、例えば諸葛孔明が妻を選んで黄承彦の醜い娘を娶(めと)るやいなや、当時の人は「孔明の婦を選ぶを作(な)すなかれ、阿承の醜女を得るに止まる・・孔明が妻を選んだようなことをしてはいけない、承さんの醜い娘を娶るようなことになってしまう。」と云い囃したと云うようなことである。このようなことを指して諺と云うのを見ると、諺は実に俗論の意味に止まるところがある。三の我が国の「ことわざ」の意味に該当するものとしては、例えば周の諺で「山に木有れば工則ち之を度(はか)り、賓に礼有り主則ち之を選ぶ・・山に木が有れば大工が良否を決め、客が有れば主人が対応を決める。」と云い、「狐之を埋めて、狐之を搰(ほ)る、是(これ)を以って成功無し・・狐が埋めは掘ってを繰り返している、これでは成功はおぼつかない。」と云い、「躓馬(ちば)は車を破り、悪婦は家を破る・・足の悪い馬は馬車を壊し、悪婦は家を壊す。」云うようなものがこれである。
 前述のように支那人のいわゆる諺には三通りあるが、中で私が語りたいのは第三の意味に属するもの、即ち我が国のいわゆる「ことわざ」に属する類のもので、民間の伝説や論評などと云う類のものでないことは云うまでもない。思うに邦語のいわゆる「いいつたえ」や「はやりことば」の類も考慮する価値が無くは無いが、私が語ろうとするものと此れ等のものは種類も性質も異なるので今は言及しない。それなので、私が俗諺として語るものは総べて皆いわゆる「ことわざ」の意味に属すものとして見て欲しい。
 支那の俗諺の形式には定型が無い。これは西洋諸国や我が国の俗諺に定型が無いのと同様であるが、しかしながらその定型の無い中にも彼と此れとでは少しの差が無い訳では無い。我が国の俗諺は我が国の歌謡と同様に押韻(韻を用いたもの)の無いものが百中で九十余りある。例えば「背に腹は換えられない」と云い、「身から出た錆び」と云うように何処にも韻を押して調子をとった痕跡が無い。時には「高野六十、那智八十・・高野は六十、那智は八十」と云い「借りる八合、済(な)す一升・・八合借りると返済は一升」と云うような、少し韻を用いたようなものも無くは無いが、要するにこれは珍しい例で、むしろ偶然の現象として解釈した方がよい。しかし支那の俗諺はソウではない。俗諺のすべてが有韻のもので無いのは云うまでも無いが、しかしまた、総べてが無韻のもので無いのも云うまでもない。「生相憐、死相損。・・生は相(あい)憐(あわれ)み、死は相(あい)損(す)つ。」と云うのは憐と損が押韻に該当する。「河射角、堪夜作、犁星没、水生骨。・・河(かわ)角を射れば夜作(やさく)に堪え、犁星(りせい)没すれば 水骨(すいこつ)生ず。」と云うのは角と作と没と骨が押韻に当たる。「相馬以輿、相士以居。・・馬を相(み)るに輿(よ)を以てし、士(し)を相るに居(きょ)を以てする。」と云うのは輿と居が押韻に当たる。「畏首畏尾、身其余幾。・・首(こうべ)を畏(おそ)れ尾を畏れて、その身の余り幾(いくばく)ぞ。」と云うのは尾と幾が押韻に当たる。「佐雝者嘗焉、佐闘者傷焉。・・雝(よう)を佐(たす)ける者は嘗(な)め、闘(とう)を佐ける者は傷つく。」と云うのは嘗焉と傷焉が押韻に当たる。俗諺では有韻の例が甚だ多く無韻のものは少ないようである。特に「春秋左氏伝」・「国語」・「史記」・「漢書」のような古い書に散見する俗諺は、たいてい有韻有調で厳然と短詩の形を成しているのが見て取れる。我が国の古い俗諺が無韻無調なのに比べて全てに優れているのを見る。支那の古い俗諺が有する形式がこのようであるにも拘(かかわ)らず、有名な劉勰(りゅうきょう)が「文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう)」で、「諺は直語なり、喪言もまた文に及ばず、故に弔もまた諺と称す。・・諺は直語である、喪言もまた飾るところがない、故に弔言もまた諺と云える。」と云うのには寧ろその激しさを感じるが、顧みて支那の古代の詩文に典麗・荘雅・瑰奇・雄偉のものの甚だ多いことに、感嘆しない訳にはいかない。
 支那の古い俗諺に有韻有調のものが多いのは前述の通りだが、このため支那の詩を談じ文を論じる者は、諺を詩の一形態をして之を歌謡の詞と一緒にする。徐氏曽の「詩体明弁」などは見識の高い人は認めないところであるが、実にその一例である。既に俗諺に有韻有調のものが多い以上は、俗諺を詩の一形態と見るのも当然のことである。ソウだとしても世は過ぎて人は劣り、庶民が心から楽しんで悠々と吟唱したような形のものができなくなってからは、いわゆる俗諺もまた気品が次第に下がり格調も次第に劣って、有韻のものが少なく無韻のものが多くなり、有調のものが少なく無調のものが多くなり、宋と元の間においては支那の俗諺も我が国の俗諺のように無韻無調になって、劉勰の云うように直語で飾らないものが十中の九を占めるようになった。試みに宋元の間の禅僧等の語録や才人の雑劇や伝奇の類を読んで、その中の古(いにしえ)に無い俗諺を調べれば、直ちに我々は俗諺が古今で大いに異なるのを発見するだろう。「相逢不下馬、各自奔前程。・・相逢って馬を下りず、各自前程へ奔(はし)る。」と云い、「将銭買憔悴・・銭を将(もち)いて憔悴を買う」と云い、「男大婚、女大須嫁・・男は大にして婚(こん)すべし、女は大にして須(すべか)らく嫁(か)すべし。」と云い、「一夜夫妻百夜恩・・一夜の夫妻、百夜の恩。」と云い、「公門好修行・・公門好く行(ぎょう)を修む。」と云い、「成人不自在、自在不成人・・人に成れば自在になれず、自在になれば人に成れず。」と云い、「無梁桶休提・・無梁の桶は提(さ)げるを休(や)めよ。」と云い、「不能使船嫌渓曲・・船を使う能(あた)わず渓(たに)の曲れるを嫌う。」と云うように、その意味するところは必ずしも悪くは無いが、その外形風采だけを取ってこれを古(いにしえ)の俗諺に比べた時に、その気品や格調に差があるだけでなく、古のものは韻を押して調べとし、今のものは韻を押すことが出来ない警句を用いたり、或いは韻を押すこと無くただ僅かに平仄や抑揚を用いただけの形を取っており、そこにも差異が見て取れる。無論こうなると俗諺は詩の一形態とは云えない。
 我が国の歌謡の形式について注意すべき点は甚だ多いが、その中でも押韻の法をとるものは少なく、それに反して畳声(じょうせい)の法をとるものが多いのは注目すべき点である。そしてまた我が国の俗諺もまた同様に押韻の法をとるものは少なく、畳声の法をとるものが多い。「駕籠かき駕籠に乗らず」と云い、「亀の甲より年の功」と云い、「川立ちは川で果つる」と云い、「髪結い髪結わず」と云う類など、みな音を重ねて趣を作っていないものはない。このような傾向は支那の俗諺にもまた見えるところで、その句を並べて韻を押すようなことが無くなって、自然とこのような押韻の法に代って、いささかその外形の美しさを補うために、「人有幾等人、物有幾等物・・人に幾等(いくら)の人有り、物に幾等の物有り」と云い、「官不威、牙爪威・・官は威あらず、牙爪(がそう)は威あり」と云い、「養軍千日、用軍一時・・軍を養うは千日、軍を用いるは一時」と云い、「人無千日好、花無百日紅・・人に千日の好きは無く、花に百日の紅(くれない)無し」と云うように、平仄反貼の法には反しても声調を重ねて趣(おもむ)きとしているのではなかろうか。
 およそ支那では散文以外のものは、少しの規則も無くつくられたような文でも、自然と一句の中に平字と仄字が交って抑揚をつけ、二句以上あるものは後句と前句で抑揚の方法を入れ替えたり、或いは同じくしたりして声調を調えるのを常とする。これは支那の人々が天性、音に聡いためにこのようなことを致すとも云える事実で、我が国の歌人を自認する人が声調の重要さを感じながら、漠然と声調の重要さを説いただけで終(つい)に声調の美を成す方法を提示できなかった悲しむべき事実に照らせば、我が隣国の文学に対して我々は幾分かの敬意をはらわない訳にはいかない。それなのに、このような自然に抑揚節奏の作用を理解する人民の俗諺が、後世になると次第にその固持していた美衣を脱いで、わずかに声調を重ねて趣(おもむき)とするような粗衣を着(つ)けるようになっては、いささか奇異の感じがするのである。ソウとは云えども世の運びが次第に移って人の欲がいよいよ進むと、人は皆気ぜわしくなり心も迫って余裕なく、その言に飾り無く、その辞に調べが無くなるは、何処の国でも同じことである。その押韻成調の法がすたれたと云えども、畳声成趣の法が猶も存在するのは、満足できるところである。
 西洋諸国には俗諺を蒐集した書が少なくない。これは必ずしも西洋諸国の人の好みではないが、実際に俗諺の愛し重んじるべきであることを知って、これを軽蔑することなく捨て置かなかったためである。我が国にも近来俗諺を蒐集して書に成ったものもある。完全と云えるものは少ないが、世にあるものは二三篇のみではないので、衆書を集めて一読すれば我が国の俗諺の大概を知ることが出来よう。ただ支那は古(いにしえ)を尚び聖賢を尊ぶ風習が甚だ強いので、古の聖賢の遺教や垂訓で無ければ紳士も之を唱えず庶民も之を重んじな、そのため民間の俗諺を蒐集して書にしたものは殆んどないようである。それなので支那の俗諺を一覧してその性質を考えその趣味を味わおうとするには、多くの苦労を敢えてしなくてはならない。モシ十分に支那の俗諺を調査検討しようとするならば、「春秋左氏伝」・「国語」・「史記」・「漢書」等をはじめ全ての正史と民間史家や小説家などの書や諸子(儒家以外の思想家)の書の類を閲読して之を拾い集めることを、たとえば砂を拾って金を選び取ったり山に上って良木を得たりするような苦労をしなければならないので、苦労もまた甚だしいというべきである。であれば一人の力でこれに当ることは、よほど余暇があり心から此の趣味に熱心で無ければ、為すことは易しいが成すことは難しい事であろう。だとしても俗諺が幸に「春秋左氏伝」・「国語」・「史記」・「漢書」、その他の正史等に載っているものなどは、好事家が時に之を拾い集めて話題にして博覧を誇ることが無いとは云えない。ただその唐宋以後の後世の品の悪い俗諺などは、勢い好事家の中にも之を拾い集めようとする人は無いであろう。
 揚升庵は博覧で様々なことに興味を持つ学者だが、その著わすところの「升庵外集」巻の八十に古今諺一巻がある。古今諺と題しているが古諺を多く載せていて今諺は多くない。思うに升庵などもまた支那人特有の尚古の習癖で俗諺を蒐集したために、特に後世の俗書を読む愚に堪えられなかったためソウなったものか。升庵以後、清の時代になって銭塘(現杭州市)の毛稚黄と云う者が「諺説」一巻を著わす。その趣旨は俗諺が理に背き道に反していて、教訓とすべきではないのに、俗人が之を頼って口実にするのを憎んで、その民間の風習に害を為す俗諺の数句を挙げて之を咎(とが)めることにある。しかしその書に載せる俗諺などは甚だ少なくて、評価するに足りない。升庵の古今諺の古(いにしえ)の俗諺を知るのによい、毛氏の諺説は今を知るには足りない。それなので唐宋以後の俗諺を知ろうとするには広く史籍を見るべきであるが、史籍以外でもその書の性質から多くの俗諺を載せるものがあり載せないものがあるが、その俗諺を多く載せる書について之を調べれば労は少なく功が多い。
 であれば、どのような書に俗諺が多くどのような書に俗諺が少ないかと云うと、古(いにしえ)を尚び聖人を敬う風習が知識階級に特に強いために、その文章や詩賦に卑近な俗諺を交えるようなことは、文章を書く知識人の嫌うところであるので、いわゆる文人の著わす書では、それが良書であれあればあるほど俗諺を含む量はいよいよ少なくなる。これに反して宋以後は次第に俗諺を交えて記した著述が起って来た。その著述の目的とするところは知識人に歓ばれることに無く、その書が広く流布することにあるので、それには直截で簡便な語句を用いて現在の実情実態を赤裸々に表すのに、俗諺の利用が最もよいとして取り入れられる傾向がある。このため上は道学先生の語録類から下は伝奇小説の類までの多くの俗諺を用いて記された著述は、その文がいよいよ俗に近づくに随いその文に含まれる俗諺の量はますます多くなる。例えば「五灯会元(ごとうえげん)」などは禅僧の垂訓や応酬を記録したものに過ぎないとは云え、いわゆる禅僧の問答弁難などは皆、少しの応答の遅れも許さないほどの峻厳酷烈なものなので、おのずから尚古の風習に馴染む支那式の修辞法など用いる暇が無く、かつまた言語の些細な末節など少しも配慮することなく、また不立文字の一句(悟りの道は文字などで伝えられるものではないという言葉)を宗門の旗印にする禅宗の事なので俗談や俗謡などを嫌うようなことも無く、その書中には俗諺が含まれること少なくない。「頌古連珠(じゅこれんじゅ)」は「五灯会元」と親子のような関係の書なので、その中にはおのずから俗諺が多いが、特に俗諺を考えるためにこのような書を調べる者は、すべてその上流である「五灯会元」を読むとよい。また例えば「西廂琵琶」その他の雑劇や「水滸伝」・「西遊記」・「金瓶梅」・その他の小説など、その書の俗が増せば増すほど俗諺を含むことが多い。であれば支那の俗諺を調べようとする者は、これ等の書を読んでその目的とするものを拾うとよい。
 だとしても、これ等の書を読んで俗諺を調べるのは、例えば「深きを探(さぐ)って礫(れき)を採る(深掘りして小石を採取する)」ようなことで、得るには得るが、その苦労の割りには好い結果は得られない。それなので、これ等の書を読むついでに、眼についた俗諺を採録するには甚だ好いが、俗諺を調べるために強いてこれ等の書を読み下すのは、甚だ愚かだと云える。今年(明治三十五年)の初冬に、私が所蔵する伝奇の類を読み、また谷風楼主人の蔵書を借りて病後の無聊を慰めるついでに、いささか俗諺を拾い出して、ところどころに評語を加えて俗諺についてこのような一言をした。私を動かしてこのようなことをさせたのは、実に熊代氏と船尾氏が好んで俗諺を語ったことによる。私がこのように諄々(くどくど)と説くのは、実に人が次第に俗諺を愛好するようになって、私のように読書のついでに俗諺を拾集されるのを願うからである。

注解
・韻書:漢字を韻によって分類した書物。
・酈道元:中国・北魏の文人。地理書の「水経注」の著者。
・諸葛孔明:中国・後漢から三国時代の蜀漢の政治家。
・黄承彦:中国・後漢末期の人。諸葛亮の義父。
・押韻の法:同じ韻の字を一定の箇所に用いた方法。
・諏訪湖の氷、狐これを渡らば人これを渡るべし:諏訪湖の全面結氷による御神渡りに先駆けて神の使いの狐が渡ると云う伝説。
・九尾の悪狐が化けて殺生石となる:那須の殺生石の伝説。
・背に腹は換えられない:同じ身体だが、大切な腹を背中に代えることは出来ない。大切なものの為には多少の犠牲は仕方ないと云う意味。
・身から出た錆び:自分自身が原因で招いた悪い結果。
・高野六十、那智八十。:高野紙は六十枚で一帖、那智紙は八十枚で一帖。
・借りる八合、済す一升。:八合借りたら一升返す。
・生相憐み、死相損つ。:生きては相憐み、死しては相棄てる。生きている間はお互い助け合うが、死ねばお互い別れ去るだけ。
・河が角を射れば夜作に堪え、犁星が没すれば水は骨を生ず。:天の川が東へ落ちれば秋となり夜なべのきせつとなり、牽牛星が無くなれば冬になって水の氷る季節になる。
・馬を相るに輿を以ってし、士を相るに居を以ってする。:馬は車を牽くところで鑑定し、人は日常の生活を見て見極める。
・首を畏れ尾を畏れて、其の身の余り幾ぞ。:首を縮め尾を縮めて、どれだけ身体に余裕が残るというのか
・雝を佐ける者は嘗め、闘を佐ける者は傷つく。:融和を助長する者は食べることを得、闘争を助長する者は傷つく。
・劉勰:中国・六朝時代の梁の文人。「文心雕龍」の著者。
・徐氏曽:徐師曽。中国・明の人。「文体明弁」の著者。
・畳声の法:同じ声調の字を一定の箇所に重ねて用いた方法。
・相逢って馬を下りず、各自前程へ奔る。:出合っても馬から下りず、各自それぞれ我が目的地に向かう。
・銭を将いて憔悴を買う:金を使って苦しみを買う。
・男は大にして婚すべし、女は大にして須らく嫁すべし。:男は成人すれば結婚し、女は成人すれば嫁に行くべきである。
・一夜の夫妻、百夜の恩。:一たび結婚すれば、末永く恩愛で結ばれなくてはならない。
・公門好く行を修む。:やろうと思えば、役所は民に善事を施せる。
・人に成れば自在になれず、自在になれば人に成れず。:責任ある地位に着けば自由勝手は出来ない、自由勝手な人は責任ある地位に着けない。
・無梁の桶は提げるを休めよ。:柄の無い桶は提げてはいけない。
・船を使う能わず渓の曲れるを嫌う。:操船の下手な人は曲った渓谷を嫌う。
・平仄反貼の法:平仄(平字と仄字の組み合わせ)の反法と貼法のこと。反法は平字と仄を字を前句と後句で入れ替え、貼法は同じにする。
・揚升庵:中国・明の学者・文人。「升庵外集」の著者。
・毛稚黄:中国・明末清初の文人。「諺説」の著者。
・「五灯会元」:中国・南宋の時代に成った禅宗の禅宗通史。
・「頌古聯珠」:中国・南宋の時代に成った「禅宗頌古聯珠通集」。

(参考)
・漢字の発音:漢字は全て一音節の発音を持っている。最初の子音を「声」と云い残りの部分を「韻」と云う。
・押韻:詩を聞いて快いものとするために、各句の最後の字には、同じ韻を持った字を揃えようという決まりが、古体詩の頃から自然に生まれてきました。これを「韻を踏む」「押韻させる」と云う。
・声調:漢字には、声韻の他に「声調」と呼ばれるものがある。声調は四つあり、これを「四声(平声・上声・去声・入声)」と云う。
・平仄:四声の内、平板な発声の「平声」を「平」、上がり下がりの多い上声・去声・入声を「仄」と呼んで「平仄」と云う。詩はこの平字と仄字の組み合わせによってリズムを生み出している。


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