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幸田露伴の随筆「潮待ち草44」

四十四 たけくらべ
 一葉女子の晩年の作には何れも愚作は無いが、特にこの作品は筆も美しく趣も深くて、少しは出どころの分かる文句や、古くさい書きようなども無くはないが、全体のすばらしさは私等の眼をくらませ心を酔わせ、次から次へと展開する筋に対応するのに精一杯で、無論欠点などを挙げようなどと少しも思わせない。近頃は世の中の好みなのか、批評家の好みなのか、作者の好みなのか、不思議な小説が流行しているが、作品を読むたびに私等は眉をひそめて、「コレは趣向を新しくして効果を上げようとして作品の正体を失い、不思議なものに成ってはいないか。」と呟(つぶや)かざるをえないが、この作者のこの作品のように、流行に陥らない自らの殊勝な風骨態度のともなう好文学を見ては、喜びの余りに我を忘れて、起(た)ってこれを迎えたいと思うのである。栴檀(せんだん)の木を削って、「この一片の香りの好さヨ」と云うのが愚かなように、吉野の花見帰りの一枝の土産で、「全山のおもかげを偲べ」と云うのが無理なように、佳(よ)い作品の文句を摘(つま)んで文章を指し、「素晴らしい、素晴らしい」と云うのも真(まこと)に愚かな行為であるが、感極まれば愚と分かっていても、愚かな行為を誰もがするものなので、僅かにその一章を取り出して私が云っても、それほど咎めることもないだろう。
 第一章は単に大音寺前のありさまを述べ、次にその辺りの子供等が学ぶ小学校のありさまを述べて、サテその小学校の生徒である信如(しんにょ)と云う子供を少し述べただけであるが、遊郭に近い土地の、他所(よそ)とは違う様子が眼に見えるようで、「柄を好みて幅広の巻き帯、年増はまだよし、十五六の小癪(こしゃく)なるが酸漿(ほおずき)を含んでこの姿(なり)とはと、目をふさぐ人もあるべし(柄を好んだ幅広の巻き帯とは年増はまだしも、十五六の小娘が酸漿を口に含んでこの姿とはと目をふさぐ人もあるだろう)」と云うところ、「昨日河岸店(かしみせ)に何紫(なにむらさき)の源氏名耳に残れど、今日は地廻りの吉と手馴れぬ焼き鳥の夜店を出して(昨日までは吉原で何紫と呼ばれていたが、今日は土地のヤクザ者の吉と馴れない焼き鳥の夜店を出し)」と云うところ、学校内の様子を述べる文章では、「おとっさんは刎ね橋の番屋に居るよと、習わずして知るその道のかしこさ、梯子乗りのまねびに、アレ忍び返しを折りましたと訴えのつべこべ」と云うところ、「お前の父さんは馬(付け馬)だねと言われて顔を赤らめる子が、金持ちの家の子に追従する」というところ、「僧の子という理由で信如にいたずらを仕掛けた子が、猫の死骸を縄にくくり付けて、御役目なれば引導を頼みますと投げつけたこともあった」と云うところなどは、何れも他の人には見えない見事な文章である。「坊ちゃん坊ちゃんといって此の子の追従をする」と書いた文章などは、何でも無いように思う人もあるだろうが、周到な文章と云うもので、同じ猫の死骸でも、この篇のこの章のように使われると、「泥水清水」の初めの方で使われたものと比べて、随分おもしろい違いがある。(猫も云うであろう、「アノ作者には酷(むご)く死んだものを猶(なお)も殺して使われたが、コノ作者は嬉しいことに活かして使ってくれた」と。)
 些末な事はサテ措いて、みどりや信如・正太郎・長吉・三五郎・龍華寺の和尚などの作品中の人物を、よくも夫々(それぞれ)に一人一人の顔付や風采を、読者の眼の前にいるかのように思わせるまでに描写したものだ。みどりの活き活きしたところ、目かくしの福笑いのような眉をした三五郎の、愚かだが愚か相応に欲も見栄も情も義理も知るところ、正太郎が物事に敏いだけでなく、早くも密かに美登利を思慕するところ、長吉の生意気で、しかも気負けしているところ、信如のはっきりしないところ、和尚の何とも云えない変に俗気満々なところ、皆よく描きも描いたものである。
 美登利の信如に対する心の中は、もちろん年若い者のことでもあり露骨には描写できないが、とは云っても描写しないで済ますことはできない、ここは表現の誤り易いところ、即ち文章の最も難しいところであるが、凡作がともすればこのような場面で千万語を費やして、猶もその伝えようとするところと程遠い醜態を演じるのとは違い、この作者が最も自然な方法でその消息を表現しているのに感心した。「信さんかえ」と受けて、「嫌な坊主ったらない」云々と第十一章に記したその一節、「どうもしないと気のない返事をして」と、その次の節に記した一句、「それと見るなり美登利の顔は赤くなりて」と記した第十二章の一節、「庭なる美登利はさしのぞいて」と記した第十三章の一節、これら僅かな文字を用いて、実は当人ですら明らかには自覚しているとは云えない、漠然としてはかりしれない奥深い感情を表現したところは最も好い。「信さんかえ」と最初の一句にはさんを付けて呼び、次の句では直ちに「嫌な坊主」と云うなどは、何とその美登利の可憐で、しかも作者の神業の筆の素晴らしいこと。これ以上の字の省略はできない。即ちその妙を知る、妙なるかな、妙なるかな、字消えて意(おもい)留まると云うのはこのことではないだろうか。人の身に刃(やいば)を加えて皮膚を剥(は)ぎ、心肝を抉(えぐ)り出して他に示すようなことをしなければ、高尚な小説とは云えないと思うような多くの批評家や小説家に、この辺りの文字の五ツ六ツを技量上達の霊符として呑ませたいものである。
 正太郎の美登利に対する心中は、これは生意気でませた子なのでやや描写がしやすいが、「水道尻の加藤で写真をとれば」と云わせたり、「そんなこと知るもんか」と云って「廻れ廻れ水車」を小声にうたい出させ、「だけれどもあの子も花魁(おいらん)になるのでは可哀想だぜ」といわせ、終にはフイと立って庭先から駆け出させる作者の用意に無駄はなく、実に感心した。特に頓馬(とんま)に対(むか)って「お前は何故(なぜ)でも振られる」と正太郎に云わせたあたりは、真(まこと)に作者は薬王樹(妙薬)をもたらして我等に与え、人の肺腑を活きたままに見せたと云えるだろう。
 美登利が初めて島田髷を結ってから、正太郎と親しくしなくなる第十四、十五、十六章には何とも云えない好さがある。その月のその日に赤飯の振る舞いもあったことであろう風呂場で、加減を見ていた母の意(おもい)も知りたい。第三章の「両親ありながら多めに見て」云々の数句、第五章の長吉が罵った言葉、第七章の「我が姉さま三年の馴染に銀行の川様」以下云々の悲しい十数句、学校へ通わなくなるほど侮られて恨んだこと、第八章の「かかる中で朝夕を過ごせば」以下の叙述などの文章が一時に私等の胸にどっと迫って、可憐な美登利の行く末はどうなることか、既にこのような事があっては、やがてアノ運命が来るのではないかと思うと、そぞろあわれを覚えて読み終わった後、云うに云えない感に打たれた。うかつな読者で無ければ、ただ単に字句の美しさだけに止まらず、これまで全篇に密かに響き流れていた物語の綾や彩りが見事に花開く第十四・十五・十六章にかかって、必ずやアアと嘆賞し、必ずや真(まこと)にこの作品は妙作であると認めることだろう。 文章の癖など人によっては嫌うところが「十三夜」よりも多いかも知れないが、全篇を通して云えば却ってこの作品の方が数等勝れていると云えよう。

注解
・大音寺前:下谷龍泉寺町辺りの通称。
・遊郭:吉原遊郭。
・刎ね橋の番屋:吉原遊郭を囲む溝(どぶ)に架けた刎ね橋(夜間は刎ねあげて通れないようにしていた。)の番人小屋。
・付け馬:代金不足の客について云って不足分を回収する男。
・「泥水清水」:江見水蔭の小説。
・水道尻の加藤:吉原遊郭の水道尻に在った加藤と云う写真館。
・「廻れ廻れ水車」:当時の小学唱歌。
・花魁:吉原遊郭の遊女で位の高い者のこと。
・薬王樹:琵琶の木のこと、葉には薬効がある。ここでは妙薬の意味。
・島田髷:未婚女性や花柳界の女性が多く結った日本髪。
・「十三夜」:樋口一葉の小説。


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