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幸田露伴の随筆「潮待ち草45」

四十六 諺
 熊代彦太郎と船尾栄太郎の二氏は、俗諺の語句に甚だ短いが意味の深いものが時にあるのを悦んで、私と会うたびに俗諺の話をしないことが無い、未だ嘗(かつ)て私は、好んでこれを聞かなかったことは無い。思うにいわゆる俗諺と云うものは、その言葉は鄙びていて質朴で飾り気がないが、その味わいのある良いものになると、直(ただ)ちにこれは詩である。直ちにこれは詩神の声であり気息であり、その未だ必ずしも味わいある良いもので無くとも、世に伝わって数百年も亡びないものは、皆コレ無名の詩人がその国民に遺した卓絶した短詩ではなかろうか。であれば、詩を楽しむ私のような者が俗諺に冷淡で居られないのも当然である。熊代氏は我が国の俗諺の出所意義を検討して世に問おうとし、船尾氏は我が国の俗諺と各国の俗諺を比較して一人みずから楽しむ。二氏の楽しむところと志すところは各々異なると云えども、二氏が私を刺激して、いわゆる俗諺なるものに対する注意を喚起し、欣賞の興趣を深めて下さったことは同じである。その内には詩を楽しむ私の習性があり、外には私を刺激する二氏のような人がいて、そして今の私には病後の余暇がある。私がいささか俗諺について記そうとするのも理由の無いことではない。
 俗諺は一面においては詩である。そしてまた他の一面においては、詩の他の表現である歌謡や小説や戯曲などと共に、その国の人々の性質や習慣や社会組織の実相を示す写真であって、その表示能力は歌謡や小説や戯曲などに優るところはあっても劣るところが無い。思うに歌謡や小説や戯曲などはそれが世に出る過程において、多少は政治上からの圧迫や法律上の拘束や思想界・物質界の権威者からの威力を受けない訳に行かないのに比べ、俗諺は自由自在の地に立って、大胆直接にその云いたいことを云い、語りたいところを語っている。そのため自然の勢いとして、俗諺は歌謡や小説や戯曲などと同様に人情世態の写真ではあるが、その表示のしかたは、彼は複雑朦朧で此れは簡単明白である。例えば支那(中国)小説の「水滸伝」は、最も豪放に政治上の圧迫を軽視した作品であるが、それでも猶、忠義の二字が作品中に点述されていて、明らかに政治上の圧迫を受けていることを証する。「水滸伝」を読む者は、当時の支那の気力ある臣民が、皇室や政府に対してどう云う思想を抱いていたかを、その一大写真によって推量できないことは無い、しかも猶、著者が外界の圧迫を受けていたたために、「水滸伝」はその示そうとするところを、その複雑模糊とした中で、辛うじて示してはいないか。「金瓶梅」や「肉蒲団」は最も淫猥で教法上の拘束を蔑視した小説であるが、それでも猶「肉蒲団」の主人公は仏に帰依する。「金瓶梅」の主人公が淫(いん)で死んで、作者が作品中の処々で淫を叱り奸(かん)を叱るなどは、皆明らかに教法上の拘束を、このような汚(けが)らわしい書にも少なからず加えたことを証している。二書を読む者は、当時の支那の放埒(ほうらつ)な男子が、女子に対して抱いた思想や女子が男子に対して抱いた思想が、どのようなものであったかを推測することができるが、それと同時に、作者が安心できないところから、自分が作り出した写真上に少しばかりの粉飾を施してその明瞭さを殺いだ苦労も見て取ることができる。大胆放埓な「水滸伝」「金瓶梅」にして猶このとおり、支那の書籍が幾千万巻あると云えども、支那の人民がどのようなものかを明瞭に語る書籍は少ないであろう。支那の歌謡・小説・戯曲等が支那の人情世態の写真であるのは、支那の俗諺が支那の人情世態の写真であるのと同じであるが、その歌謡・小説・戯曲等は常に聖教賢伝の金粉銀粉や政治からの炭粉や大詩人等が与えた形式の珠塵玉屑が写真上に施されていないものは無い。明白に支那人民がどのようなものであるかを語る点では、これ等金粉・銀粉・炭分・珠塵玉屑が塗抹されていない簡単な俗諺に敵わないことを知るべきである。
 これは特に支那に於いてソウなだけで無く、我が国に於いてもソウであり、欧米諸国においてもソウなのである。しかし、その国の歌謡・小説・戯曲等がその国の人情世態の写真であるのに間違いはないが、その写真上に何等の塗抹も無しに、その国の国民どのようなものであるかを語る点で、明らかに俗諺には譲らざるを得ない。俗諺は実に国民の性質・習慣・社会組織の実相を示す写真として尊重しなくてはならない。例えば「銭これ力なり」と云う俗諺を聞けば、この俗諺を有する国民の性質や社会状態の一面を明白に知ることが出来る。思うにこのある俗諺は、極めて小さいある部分を写し出すある写真に過ぎないが、その示すその表面には何ら粉末の塗抹が無いので、その人の眼に映じる画像は甚だ明白であろう。キリスト教の金粉銀粉で塗抹されていないこの一ツの小写真画は、キリスト教の金粉銀粉でもって塗抹された幾点かの大写真画よりも、我々にその国の国民の一面がどのようなものであるかを合点させるのに、どれほど有力かは問わなくとも分かることである。また例えば支那の俗諺に「銭これ人の胆」と云うのがある。この俗諺は、決して孔子や孟子もしくは教法や絶対君主体制などの金粉銀粉で塗抹された幾多の支那著述では、我々に示すことのできないほどの、支那人の金銭に対する思想の一面を、如実に示しているではないか。また例えば、我が国の近世の俗諺に、「地獄の沙汰も金次第」と云うのがある。この俗諺は江戸時代の世の法役人や獄吏の腐敗の実情と警察組織・監獄組織の不良の実情を何と明白に示しているではないか。およそ俗諺は国民性や社会の実相を示す写真として、その示す画面は甚だ小さい範囲に過ぎないが、その画面の物を明白如実に写すことはこのようである。俗諺は単に詩として愛されるだけでは無いのである。
 俗諺はその本来の性質から、その作者が不明でその起源を知ることが出来ないのが普通である。それが初めて活字として記載された時であれば或いは考えることも出来ようが、その作者や起源が考えられるのはむしろ例外と云える。何故ならばその作者が明白でその起源を考証できるのは、賢人の格言や詩人の警句もしくは時代の歌謡などと云うもので、俗諺と云うものとは自ずと異なるものだからである。ただ、その初めは格言や警句や歌謡の類であったものがその後の流れで俗諺になったものも少なくはない。これ等はその作者と起源が分かっているとは云えども、その実体の俗諺であることは勿論である。俗諺の本来は職業や貧富や老若男女は無論のこと、学問もなく徳もない俗世間の人の偶然閃(ひらめ)いた一二句の、その真理あり佳趣あるところが人の肺腑に沁みて、人の口から耳に伝わって、その国民の共感を得た結果、終(つい)に大詩人や大聖人の教訓のように世に流通存続して、そして国民の良師・益友・凶師・悪友となり、裁判官・参謀・教法家となり、妻・使用人・上役となって、或いはその福利を増進し、或いはその害毒を助長することになる。
 それなので俗諺はその種類は甚だ多いが、これを大別すると結局のところ、体験と直覚から来ていないものは無い。時には体験や直覚以外から来ているものも無くはないが、これ等は呪詛や方便の類で俗諺の中では最も価値の低いものである。例えば、「犁星(りせい)没すれば水骨(すいこつ)を生ず・・オリオン星が沈む頃には氷が張る」という俗諺は度重なる体験の中から生まれて来たもので、気象や時候の観察がなお幼稚であった時代に幾十人が幾十回も体験した結果を、たまたま一人がこれに気付いたことで、終に一ツの俗諺として千余年を経た世に存在するものになったのである。「暮霞(ぼか)千里行くべし・・朝霞の時は雨が降るが夕霞では降らないので千里の道でも行け)」と云い、「七ツ下がりの雨は止まぬ・・夕方四時過ぎからの雨は止まない」と云うような俗諺は皆この類である。また例えば「千人の指すところ病なくして死す・・大勢の人に非難されれば病気でなくても死ぬ」と云い、「生相憐れみ、死相損(す)つ・・生きてる間は憐れみ合うが、死ねば棄て合う」と云うような俗諺は、鋭敏な直観から来る警語であって、一人が之を唱えて百人が之に和したことで遂に不朽の価値あるものに成ったのである。我が国の俗諺で「怠け者の節句働き・・怠け者は皆の休む節句に働く」と云い、「付け焼刃は剝げやすい・・付けた刃は剥げやすい」というようなものは皆この類であって、この類の俗諺は俗諺中最も尊重する価値のあるもので、その説き示す意味には時にバカバカシイものもあるが、しかしなお詩神の声であり気息であるとして之を愛好して、国民の性質や社会の実相を写す写真画として賞玩する価値のあるものである。また例えば、「香の物が嫌いな者は貧乏する・・漬物が嫌いな者は貧乏する」と云い、「食後直ちに眠ると牛になる」と云い、「飛ぶ鳥に糞をかけられると福が来る」と云うようなものは、経験から来たものでも直感から来たものでもなくて、贅沢を好んで質素を嫌う者を叱りつけたり、或いは不作法で締りの無い者を揶揄(からか)って云ったり、或いはまた不快な事に遇った者を慰める精神から云い出したものに違い無い。この類の俗諺は、その国の人々にとって急には廃止できない価値あり効用ある俗諺であるが、他国の人々から見れば、ただ単にその国の国民の迷信の断片を見出す他(ほか)には何ら興味のない、最も価値の低いものであるのは勿論である。このような呪詛(じゅそ)や方便から生まれた俗諺などは、実に俗諺として受け取るよりも、迷信や愚説として受け取った方が或いは当を得ているかも知れない。何故ならばこの類の俗諺は、俗諺として解釈されて世間に存在しているのではなく、却って実際にその語の示すような事実が在ると認識されるために、存在している傾向が甚だ多いからである。
 要するに俗諺は、一面においてはその国民の短詩として尊重され、他の一面においてはその国民の性情や社会の実相の写真画として尊重されるべきものである。であれば、思いを文学に寄せる者が之を検討し研究し、咀嚼し玩味して品賞すべきなのは勿論であるが、広く政治や商業に身を置く人にあっても之を一顧しない訳にはいかず、哲学や心理学に精しく心を傾ける人にあっても之に耳をかさない訳にはいかず、特に人類思想の真の歴史を読んで国民の性格の真の地図を読み取り、世界文明の行方を考察しようとするような高尚な思いを抱く人々にとっても、その人々の職務とするところが各々異なるにしても、俗諺は同じように趣味と利益を与えるものであるべきである。

注解
・熊代彦太郎:
・船尾栄太郎:
・俗諺:民間に流布している諺。
・呪詛:呪い
・方便:教えに導くための手段


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