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蛙田アメコ先生めあてで見た林家つる子師匠の落語があいみょんの歌のように天才だった話

推し小説家の蛙田アメコ先生が出演するということで、日本橋で落語を見てきました。といっても蛙田先生が落語をするわけではありません。大学時代の友人、林家つる子氏が真打に昇進する。しかも先輩11人を抜いて、女性落語家として初めて、落語協会で11年ぶりの大抜擢で真打昇進。大天才です。これをお祝いする壮行会でした。会場の日本橋社会教育会館につくと、パンフレット代わりにコピー紙で出演者一覧が渡されました。

もらった時のままです。印刷に失敗していますね。おそらく蛙田アメコ先生本人がコンビニでコピーした手作りペーパーなのでしょう。それじゃあしょうがねえな。納得して席につきます。


ペーパーには出演者の落語家名、屋号が書いてありますが、今日の出演者は普段と違う大学時代のおふざけネームで出るので、せっかく書いたペーパーの紹介が機能していません。しょうがねえなほんとに。しかし主演者の落語家のみなさんはプロなので、ステージはたいへんレベルの高いものでした。
最初に出演された方は三遊亭伊織さん。この方はペーパーの紹介通りの名前で高座にあがり、挨拶をかねて軽くトークで会場を沸かせた後、みごとな古典落語を披露しました。あまりに見事なので、この人はもう先に真打になった方なのだろうとおもっていましたが、後で調べるとまだ二ツ目とのことでした。すごいレベルの高さ。まるで北斗の拳の名もなき修羅のようなオープニングアクトです。声も通り、噺の巧さも申し分ありませんでした。なぜ真打ではないのでしょうか。そのあとに旧友たちが次々と高座にあがりましたが、いわゆる古典落語は最初の三遊亭伊織師匠のみでした。大学時代の名前で、創作落語、漫才、内輪ネタ、そして蛙田アメコ先生も全員出てフリートークで思い出話などに花が咲きました。いわく、大学の落語研究会時代から林家つる子さんはズバ抜けたスターだったこと。蛙田アメコ、林家きよ彦、林家つる子(当時はむろん本名ですが)女性3人でいつも一緒だったこと。そうした大学落研のはめを外した青春の思い出話に花が咲く様子は、大学に行ったことのない筆者にはとてもまぶしく見えました。最後の最後、林家つる子師匠の落語が始まるまでは。

あえて言うなら、林家つる子の落語は和気藹々とした雰囲気のその日の手作りイベントの最後に冷や水をかけるようなものでした。つまらないからではなく、恐ろしくレベルの高い落語だったからです。
林家つる子の前情報としては、いわゆる古典落語を女性視点で解釈し直す、というものなのだと聞いてはいました。ハーンそう言う感じね。まあ今時の、ディズニーリメイク的にちょっと価値観をアップデートした落語なのね、こういう時代だし、話題性と女性客もあてこんで抜擢昇進なのね、という先入観がありました。しかし実際の高座で見せられたものは、そうした理に落ちる解釈を超える芸でした。
林家つる子による古典落語「紺屋高尾」が始まった時、最初に高座をつとめた三遊亭伊織に比べるとやや声量の圧が低いな、やはりそのへんは女性のハンデなのかな、と思った声は、噺が進むにつれ逆にその圧の低さで観客をぐいぐいと引き込んで行きます。柔らかい声に哀しみがある。それは身分の高い花魁に恋した染物屋の男の喜劇として作られた古典落語を、彼を迎える花魁の哀しみの物語、悲劇として語り直すことのできる声でした。
林家つる子の才能はその声と語りそのものにあります。古典落語のストーリーを変えるからすごいのではなく(確かに小さな改変はありますが大きな変更ではなく、基本的にはそのままです)、彼女の声で古典落語を語るだけで、落語の主体や視点、世界を語る一人称が男性から女性に変わるのです。志ん朝や談志といった名人たちが語る落語のなかで「男によって語られる女」だった花魁の高尾は、林家つる子の声によって「女が語る女」に生き生きと蘇り、その声と語りそのものがパラダイムシフトとして批評性を帯びていきます。そして、代わりに染物屋の男やその親方が「女が語る男」、花魁である高尾の女の目に映る男たちに入れ替わるのです。そして林家つる子の確かな技術は、落語の中の愚かな男たちを断罪するのではなく、その愚かさを批評性とともに肯定していきます。「落語は業の肯定である」という有名なテーゼの通りに。
あいみょんという優れた若いアーティストに「君はロックを聴かない」という出世作となったシングルがあります。片思いの女の子に自分の部屋でロックのレコードを聴かせる少年を主人公にしたその歌詞には、相手の少女の内面は一切言及されていません。にも関わらず、君はロックなんて聴かないと思うけどどうしてもこのレコードを聴いてほしいんだ、と恋焦がれる少年の内面があいみょんの声で歌われる時、それは少女の目に映った愚かで愛すべき少年になります。その歌はどこか落語に似ている。とりわけ林家つる子の落語にとても似ているかもしれません。
11人抜きの真打昇進というのは決して下駄を履かされているのではない、確かにこれは驚くべき才能でした。林家つる子の声は、落語という古典芸能を、男が女形を演じる歌舞伎から、女が男役を演じる宝塚に変えてしまうのです。そしてここが重要なのですが、それがまるで落語とは最初から女のものだったのかもしれない、『紺屋高尾』という演目は女の落語家が演じるために江戸時代から眠っていたのかもしれない、と思うほどにそれが自然であると言うことです。

林家つる子の高座を聞きながら、なぜ今夜のステージで最初の1人をのぞいて誰も正面から古典落語を演じなかったのか、その理由がわかる気がしました。もちろん理由の一つは、男性の古典落語と女性の古典落語を最初と最後に比較するためです。でももう一つの理由は、その夜に、林家つる子を祝うために、四大団体と言われるあんまり仲の良くない落語界のいろいろめんどくさいあれこれを調整して集まり、会場費もコピー代もおそらく自腹を切って舞台に上がった大学時代の旧友たちは、みんな若き日に林家つる子の落語に敗れ去った人々だったからでした。舞台で思い出として語られる大学時代からこの人はズバ抜けていた、いつもファンに囲まれて俺なんて近づけなかった、この人はいつもニコニコしてるけど目が笑ってないんだ、という思い出話をお世辞とは思っていませんでしたが、実際に才能を目の当たりにするとそれはもっと深刻で、切実でリアルな言葉に思えました。女性落語家、林家きよ彦さんが客をいじりながら「昔は彼女とライバルなんて言われたこともあったんですよ、あっ今笑いましたね」という自虐的なジョークは、その後に林家つる子の才能を目の前にすると重い響きを増しました。同世代の女子大学生の恐るべき古典落語の天才を目の前にして、同じ道を志す女子大生はエンパワメントされるでしょうか?されねえよ。バケモンと真正面から比較されるに決まってるだろうが。だからこそ彼女は古典落語ではなく、自分の作り出した、アイドルと客をテーマにした創作落語をその夜に演じたのでしょう。100年磨かれ続けた古典落語より面白い創作落語なんて簡単に作れたら苦労はありません。でもそう言う形で、あんたとは別の方法で戦ってやるからな、という意思表示にその創作落語は見えました。他の男性たちもそうです。ある人たちは落語家であるにも関わらずマイクスタンドでかけあい漫才をやり、ある人は師匠の物真似、ある人は落語界の内輪ネタで笑いを取りました。それは林家つる子という怪物と若き日に出会った人々が、ど真ん中の古典落語で太刀打ちできなくても、俺たちは反則でも飛び道具でも使ってあんたと戦って生き延びてやるからな、という宣戦布告に見えました。それは同窓会というより、林家つる子という才能の呪いからの卒業式のように見えました。そしてあえて言うなら、同時代に生まれたど真ん中の歴史的天才に対してあらゆる奇策で戦おうとするその他の出演者たちの生き様は、落語のように見えました。落語はモーツァルトを称賛するだけではなく、サリエリの嫉妬と抵抗を笑いとともに肯定してくれるものなのです。その夜に上演された古典落語は最初と最後の二席だけでしたが、その夜に舞台で起きたことすべて、舞台の上で生きていた人々すべてが大きな美しい落語でした。

「私は野球という言葉を得てそれを話し始める。それを語り、生き始める。」
これはW.P.キンセラによって書かれたアメリカの現代小説、『シューレス・ジョー』の一節です。『フィールド・オブ・ドリームス』の名でケビン・コスナー主演で映画化もされました。
「君がそれを作れば、彼はやってくる」という神の啓示に打たれ、トウモロコシ畑を潰して野球場を作った狂った男のもとに、追放されて死んだはずの名選手、伝説の作家JDサリンジャー、そして主人公の死んだ父親がやってくるという物語は、アメリカ現代小説の名作として燦然と輝いているにも関わらず、落語の法螺話にとても似ています。引用した「私は野球という言葉を得てそれを話し始める。それを語り、生き始める。」という言葉は、クライマックスでエディという老人が聖書を読むように告げる野球への賛歌です。彼は自分が野球選手だったと嘘をつく哀れな老人なのですが、主人公が畑を潰して作った野球場でその夢は真実になります。そこは叶わなかった夢の墓場であり、歴史に敗れた人々の野球場なのです。林家つる子の壮行会を見ながら、僕はそのアメリカ現代小説を思い出していました。

その壮行会から数日後に、待ちに待った蛙田アメコ先生の新刊が本屋に並びました。

山奥育ちの俺のゆるり異世界生活~もふもふと最強たちに可愛がられて、二度目の人生満喫中~

よければ読んでみてください。蛙田アメコ先生はたくさんの著作を持つライトノベル作家で(柳ヶ瀬文月の別名で『お師匠様、出番です!』という落語小説も書かれています)最新作もとても面白い異世界転生小説です。あの壮行会の夜に蛙田アメコ先生は落語をしませんでしたが、落語の代わりに小説を書いているのです。若き日に出会ってしまった歴史的天才と、別の方法で戦うために。他の人々が創作落語や、漫才や、イベントプロモーターなどとして人生の日々を戦っているように。人間が作り出す優れたものは、アメリカ現代文学からあいみょんの歌に至るまで、みんなどこか落語に似ています。愚かで愛すべきもの。そういう意味においては、これはライトノベルの形をした、蛙田アメコ先生が作り出した創作落語です。あなたは落語という言葉を得てそれを話し始める。それを語り、生き始める。

その言葉は落語である。

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