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本来の意味で、「諦める」

こんにちは。おおかみの人です。

今回のトップ画像は、「高い山を遠くから眺める人」のイラストを、心理士なべた(@nabetas11)からお借りしました。

心理士なべたさんのプロフィールはこちらです。



※今回は、複数のエピソードをひとつにまとめているので本文がかなり長めです。


* * * * * * *


諦める。

この、ネガティブなイメージが大きすぎる言葉。

夢を諦める。
進学を諦める。
勝つことを諦める。

とかく、いいイメージがない。

果たして、この言葉はそんなに悪い言葉なのだろうか?

大谷大学の「諦める」のページには、こうある。

「つまびらかにする」「明らかにする」が、本来の意味である。そして、漢語の「諦」は、梵語のsatya(サトヤ)への訳語であって、真理、道理を意味する。

大谷大学 教員エッセイ 読むページ "諦める"より

そうであれば、ものごとの道理をわきまえることによって、自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念する、という思考のプロセスをそこに見出せる。

大谷大学 教員エッセイ 読むページ "諦める"より

…と、このページにもあるように、もともと「諦める」という言葉には「物事の道理が明らかになる」という意味が込められている。であるから、一般的に言うところの「あきらめる」のイメージは、本来は誤ったものである、ということがわかる。

それを考えると、最近のわたしはこの「諦める」経験が多く重なったように思う。
1つずつ考えていきたい。




1. 仕事において「諦める」

わたしが働いている通信制高校では、さまざまな事情を抱えた生徒がやって来る。

いじめを受け不登校になってしまった人。
起立性調節障害があり、みんなと同じように学校生活を送るのが難しい人。
精神疾患を抱えた人。
学習障害を抱えた人。
対人恐怖がある人。
自分の夢のために、始めから通信制高校を選んだ人。

ほんとうに、いろんな人が入学してくる。

彼らにひとつ共通することと言えば、何らかの形で、いわゆる「普通」からはじき出されている、と言うところだろうか。

いまの職場に就職する前までは、通信制高校というものに幻想を抱いていたのかもしれない。
事情を抱えながらも、通信に通って勉強を頑張りたいと思っている生徒ばかりだと思っていたのだ。

だが。そんな訳がなかった。

そもそも学校に来る気がない。
こちらから促してやっと学校に来ても、勉強をする気がないので、ずっとスマホばかりいじって課題が進まない。
その日に気分が乗らなかったら、以前に先生方と約束していても学校に来るのをドタキャンしてしまう。
この日は学校に来れる!絶対来る!と言っていたのに、待てど暮らせど来ない上、連絡が取れない。
自分がどれだけの進度状況か自分で全く把握する気がなく、何をすればいいかわからない上、ごく稀に登校しては自分の進みが悪いのを先生や学校のせいにする。

…など。

こういう人たちが、わんさかといるのだ。

そして、こういう人たちに共通しているのが、

夢や目標がない

勉強する意味がわからない

勉強しない

学力がとても低い

ということだ。

そして学力が低いので、ますます勉強が分からず、やっぱり勉強を放棄して…という、負のループがここで生まれる。

もちろん、みんながみんなそういう人たちという訳ではない。自分で計画を立てて学習に取り組んでいて、学力がそれなりにある人も確かにいる。そしてそういう人たちには必ず共通点があって、進学や就職といった自分なりの夢や目標がある、ということだ。

思えば、この「夢や目標がある」人のことばかり応援して、夢も目標もなく勉強もしない人のことを否定してしまっていたんだと思う。

以前、とある五月雨登校の生徒が学校にやってきて、「こんな風にしたら自分でも学校にちゃんと来れるはず!」と、自分の考えを伝えてくれたことがあった。
わたしは、とうとう真面目に登校する気になってくれて、嬉しい気持ちでいっぱいになった。
「じゃあ、そんな感じで進んでいこうね」
と言って、それでその人は帰っていった。

でも、やっぱり来なかった。

また久々にその人は登校した。

そして、以前のその「学校に来る計画」をぶち壊してしまうようなプランを自慢気にわたしたち教師陣にぶちまけたのである。

わたしははらわたが煮えくり返るような思いだった。

こんなに応援しているのに、裏切りやがって。
いったいどういうつもりなんだ。
お前にそんなことできるわけがない。
どうせ今までと何も変わらないのに、これ以上状況を悪くしてどうするんだ。

…と、相手に対して怒りの気持ちが生まれた。

もちろん、相手を怒鳴り散らした訳ではない。しかしその人にわたしが話しかける口調は、詰問するような、糾弾するような、キツい言い方になってしまっていた。隠すことすらできなかった。

わたしは後になってそのことを反省して、上司にアドバイスをもらうことにした。

「どうしてその生徒に厳しいのですか?
必ず原因があるはずです」


厳しくした原因。
期待を裏切られたから。
そもそも、怒りの感情が生まれるのは、なにかに期待していてそれが裏切られたからだ。

しかし、それ以上にわたしの中にはもっとドス黒いものがあった。それは、


「あなたに、変わってほしい (I want you to change)」
「あなたは、変わるべき (You should change)」
「あなたは、変わらなければいけない (You must change)」


という気持ちだった。

つまり、相手に対して「強制」的に「矯正」を促す態度である。
わたしはそのことに気づいてハッとした。

他人は、変わらないものだ。他人を変えようとするのは難しい。
そしてその、他人を「変えよう」とする気持ちは自分のエゴに過ぎず、相手にはなんの関わりもないものだ。
そういう偏った意識があったから、あんな態度になってしまっていたのだ。

…ということを、正直に上司に話した。


「おおかみ先生、大事なことちゃんと分かってますよ」
「人は変わらないものだ、という前提で受け容れる。変わりたいときは自分でスイッチを入れて変わるしかないので」


そのとおりだ、と思った。
何かがストン、と腑に落ちた。
きっと、その瞬間が、わたしの中で「諦めた」瞬間だったのだろうと思う。

人は変わらない。
こちらが「変われ!」と念じて、どれだけ手を尽くしたとしても、変わらないものは変わらない。
ならば、変えようとするのをやめる。
この人はこういう人なのだと受け容れ、少しその人と心理的な距離を取る
心理的な距離を置くと、優しさが生まれる
その優しさで、相手の幸せを願うことができる。

これが、わたしの中の「悟り」であり、「諦め」であった。

相手との距離が近すぎる、あるいは相手を自分と同一化していたから、苦しかったのだ。
自分は自分、他人は他人
見守る優しさというのもある。
ならばわたしは…もちろん人の態度にイライラしたりモヤモヤすることはまだあるが、細かくとやかく口出しせずに、そっとそばで見守っていよう、と、そう思った。

これがわたしの、仕事における「諦め」の話だ。



2. 交際(恋愛?)において「諦める」

これは、ほんの少し前の話だ。

いまはもう完全にやめてしまったが、いわゆる「婚活」というものを少しの間だけやってみていたことがあった。

わたしはセクシュアルマイノリティ(バイセクシュアル)だが、やっぱり「普通の幸せ」を手に入れたいと本心では思っていることを自覚したことが、婚活を始めたきっかけだった。バイなら、男の人とも付き合えるわけだし…と思って、ちょっと欲が出たのだ。

婚活を始めたときは、何もかもあまり深くは考えていなかった。
昔のわたしと、いまのわたしは違う。
いまのわたしは人間的にも精神的にも以前より少しは成長していると思うし、人付き合いだって上手になったと思う。だから、いま婚活をしたらうまくいきそうだ、と、ぼんやりとそう思ったのだった。

ところが。初手で躓いてしまった。

2つの結婚相談所で婚活の相談をしたのだが、どちらでも「登録したらまずは写真を撮りましょう」という話になった。

スカートを履いて撮りましょう。
トップスは、明るくふわっとしたイメージのものを。
髪は…ショートなんですね。仕方ないですね。
メイクは女性らしく写真映えするように、こちらで指導することもできますよ。

ここまで聞いて、正直げんなりしてしまった。

わたしはいわゆる「シスジェンダー」(ココロとカラダの性が一致している)女性なのだが、だからといって普段からフェミニンな装いをしている訳ではないし、正直見た目は女性らしさ全開なわけではない。中性的とまではいかないが、少なくとも女性らしさにこだわってはいない。

ところが、結婚相談所で求められるのは、あくまで女性らしさなのだ。
手入れが施されて艶のある長い髪に、女性らしい、かわいいメイクをして、明るくふわっとした装い(スカート必須!)をしているような、そういう画一的な「女性像」を求められる…らしい、とわたしは理解した。

ああ、婚活は就活と同じなのだな、と思った。
就活に向かう女の子たちは、みんな同じようなリクルートスーツを着て、だいたいの人が少し長い髪を小綺麗にポニーテールにしている。それと同じで、見た目にわかりやすい「女性らしさ」を求められるようだった。

どれだけ昨今多様性の時代になったとは言え、結局結婚相談所で扱うのは「男性と女性の関係」のみだ。だから、性別役割のようなものを強く求められるのも納得がいく。そして、わたしはその条件をはるかに満たせないことも十分わかっている。

この時点で、婚活に対する欲はほとんど消え失せてしまったのだが、2つの結婚相談所のうち1つに登録して、そこで1人の男性とマッチした。

サポーターさん同席のもとお見合いをし、その後週末に何度か一緒に出かけるなどした。そして何度目かに出かけたあと、帰りの車内で「付き合ってみませんか」と言われ、そのままその相手と付き合うことになった。

正直に言って、ここまでの段階でわたしがその相手に対して恋愛感情を抱いていたわけではなかった。話は合うし優しい人だとは思ったが、住む世界も何もかも違うし、自分の気持ちの中では「異性の友達」止まりだった。
でも、付き合いを重ねれば相手にもっと好意や恋愛感情を抱くのかもしれない。それ以上先の関係性を考えると吐き気がするほど気持ち悪かったが、それを無視して付き合うことに決めた。

そんなある日。

仕事で追い詰められてしまって、ポロッと相手に弱音を吐いてしまったことがあった。

仕事でうまくいかなかったことがあったんだよね。

そう文字列を送った。

「そんなことがあったんだ」

とか、

「大変だったね」

とか、そういう反応が返ってくるかしら、なんて思っていた。
ところが、自分の中で思ってもいなかった反応が返ってきた。

「僕がアドバイスできるのは、〜」
「うまくいかないんだったら、こうするしかないね」
「このやり方が正しいと思う
「このやり方がおおかみさんにとっていいと思う」

おやおや。これは。
ここで完全に、相手に対する好意はなくなった。

男性脳と、女性脳という言葉がある。
男性は、目の前の問題を解決するための脳で、女性は共感を求める脳。
わたしはその違いを思い出した。

弱音を吐いたとき、わたしは無意識に共感を求めていたのだ。見た目はフェミニンではなくても、脳は女性らしいと言えるだろう。

対して、その弱音を目にした相手の男性は、それを「問題」だとして、それを自分なりのやり方で「解決」することが先決だと思ったのだろう。だから「アドバイス」という言葉が出たのだと思う。このあたりの感覚の違いは、男女差がどうしても出てくるものだから、残念ではあるが納得はできる。

問題はそこではない。

「これしかない」
「これが正しい」
「あなたにとってこれがいいと思う」

これがどうにも、腑に落ちなかった。

いやいや、あなた、何様のつもり??
なんでそんなに上から目線なの??
あなた、そもそもわたしの何を知ってるの??

やっぱり、ここでもわたしに怒りの気持ちが湧いてきた。これもやはり、期待が裏切られたときの怒りに変わりはないのだが。

では、何故こんなに怒りが湧いたのか?

それは、相手が自分にとって受け容れがたい価値観を持っていて、それを押し付けられたように感じたからだった。

彼にとって、「正しい答え」はひとつしかないらしい。そもそもその考え方が、わたしとは相容れない。

わたしの考え(価値観)の中では、文脈によって、人によって、など、いろいろなパラメータの具合によって、刻々と「正解」は変わる。そして「絶対に正しい答え」はなくて、どの答えも良い面と悪い面が入り混じっているスペクトラム的というか、グラデーションだと考えている。かつて自分が持っていた「白黒思考」とか「0-100思考」というものは、過去に置いてきたのだ。

そして、目の前に、かつてわたしが捨て置いてきた白黒思考をぶつけてくる相手がいる。
これはもう、価値観の相違以外の何物でもなかった。相手の年齢的にその価値観は揺るぎようがないものだと思ったし、反りが合わなそうだな、と感じた。

そしてその予感は的中した。
付き合う宣言をしてまだ1週間も経たないうちに、相手の方から「別れてください」と申し出があったのだ。まあ、言うまでもないし、言わんこっちゃない、という感じだった。わたしは二つ返事で了承して、晴れてお別れとなった。

この経験を通して、自分なりにいろいろ考え直したり、見えてきたことがあったりした。

まずもって、わたしには「婚活」というものがそもそも向いていないことがわかった。
それは前述の通りで、女性性を全面に押し出して動かなければいけないのは自分にとっては窮屈だし、苦痛だった。

そして、そもそもわたしは結婚したかったのだろうか?自分にとって、果たして結婚というものが必要なのだろうか?と改めて考えた。

いわゆる「普通の人生」…結婚して、家庭を持って、子どもを生み育て…という希望、理想は確かに自分の中にあったが、それはとても頼りない、おぼろげなものだったのだと、いまは思う。その先の想像など微塵もできてなどいなかったのだ。なんて浅はかなのだろう。

結局、わたしは結婚するとただただ不自由になってしまうのだ、と思った。

結婚して、相手と2人の生活、ということを考えたとき、全くの他人と生活していけるだけの精神的な余裕は、残念ながらない。いまのわたしは自分のことだけで精一杯だ。

結婚し家庭を持つということは、相手との関係性に責任を持つということであり、もしそこに子どもが生まれたとしたら、ますます責任が増える。

子どもを持つとなったら。
わたしは生まれた子どもに対して責任を持てないと思っている。
それは親戚の親子を見たり、人形劇イベントに来てくれた親子連れを見たり、また日常的に仕事で接する生徒たち(と、その保護者)を見て、直感的にそう感じてしまったのだ。
1人の人間を1人の人間として育て上げる自信もないし、そんなことができるほど自分はできた人間でもない。

結婚したら茨の道を歩むことがわかっているくらいなら、思いっきり自分のやりたいことをして、自分の人生を楽しむことに全力を注ぎたい。
責任の2文字に縛られて息苦しい思いをしながら生きるのは、自分にとっては辛く苦しいことだ。だから、できる限り人生において「責任」と呼ばれることからは自由でいたい、というのがわたしの結論だった。

自分の人生に対して「諦めた」瞬間だった。



3. 友人関係において「諦める」

終わったご縁の話をしたい。

数年前に出会ったとある人物のことを、「ツェさん」と呼ぶことにする。名前の由来は後述。

わたしとツェさんは、置かれた境遇が似ていることもあってすぐに仲良くなった。毎日LINEでやり取りを欠かさないくらい、はじめのうちは仲が良かった。

そこまでは良かったのだが、お互いの仲が深まっていくごとに、何か違和感を感じることが多くなった。たぶんこのなんとなくの違和感は、ツェさんも感じていたのだろうと思う。

そうしているうちに、ツェさんはどんどん体調が悪くなっていった。精神的にしんどいことが重なって、ココロがボロボロになってしまったのだ。
本人は気づいていないようだったが、ボロボロになってしまったのはツェさん自身の物事の捉え方もかなり影響しているようだった。

ココロがボロボロになってしまったツェさんは、まるで窮鼠が猫を噛むように、何故かわたしに攻撃を仕掛けてくるようになった。
思えば、わたしがツェさんにいちばん近いところにいて、怒りをぶつけるにはうってつけの存在だったのだろう。画面をスクロールしないと全文が読めないような長い罵詈雑言を送りつけてきたりするようになった。


「私は、自分中心で周りの人が気を遣ってくれていることや、他人のことを振り回していることに気づけない人が一番苦手です」

「関係が深くなってから、相性が悪かったと気づくことなんてよくあることです」

「おおかみさんには、『言われるうちが華』だということを伝えたいです」


…と、要約するとそういうような文面がつらつらと送られてきた。

まるで『ツェねずみ』だ。
わたしはそう思った。

宮沢賢治の著作なのだが、ツェねずみという奴は、自分になにか不利益が生じるとそれを人のせいにすることに余念がない。そして、100ぺんも250ぺんも、

「まどうてください!(償ってください!)」

と言って、相手のことを疲弊させ、自分から相手との関係を壊してしまうのである。もちろん、彼には友達などいない。

ツェさんの「まどうてください、まどうてください!」が聞こえてくるような気がした。

こんな純粋な悪意とか怒りというものをぶつけられたことが長いことなかったので、ぶつけられたときは手が震えるほどの恐怖感や、胸のあたりが冷たくなるような悲しみを覚えたりした。

しかし、それも収まってくると、わたしの中で

「はて?これは?」

という気持ちが膨らんでいった。
その気持ちが何だったかと言えば、

「ツェさん、自分のことよく分かってるんじゃない?」

つまりどういうことかと言うと、

「どうしてツェさんは、わたしがツェさんに言いたいことのすべてを逆にわたしに言ってくるのだろうか?」

ということだ。

ツェさんは、ツェさん自身が、自分のことが中心で周りの人が気を遣ってくれていることや、他人のことを振り回していることに気づけない人間だ。こちらの気遣いなど知らずにわたしに罵詈雑言をぶつけてくるのだから。

そして、関係が深くなった今更になって、わたしはツェさんとの相性が悪いことに気がついた。

そして最終的には、わたしはツェさんに何も言わなくなった。「言われるうちが華」だと思ったからだった。

なので、わたしは、ツェさんが言ったことが「あれ?わたしがツェさんに言いたいことそのままだ」と思ったのである。

そんなことに「何故?」と感じながら、わたしはツェさんの言動にひどくまいってしまっていて自分ひとりで抱えているのがつらくなったので、とある人にこの話を打ち明けて相談することにした。

かくかくしかじか、こんなことがあって、わたしはこう感じた、ということをその人に話した。話しているうちに、なんだかツェさんのことがかわいそうな人だと思えてきて、そのことも話した。


「その人はね、自分の周りの人には自分より不幸でいてほしいんだよ」
「おおかみさんが『かわいそう』って思えてる時点で、この問題は解決してるんじゃない?」


なるほど。自分が常に一番に恵まれた立場でいたい、ということだろうか。そこまでして虚勢を張らないと、自分の立場が危ういということ?

かわいそうだと思ったのも、その時点でツェさんと同じ土俵ではなくひとつ高いところから見ている、ということだし、そこに降りていって戦う必要はない、ということだった。
「もう解決している」に関しては、あとあと身にしみて実感することになった(=「諦めた」)。

そして、「わたしがツェさんに言いたいことをツェさんがわたしに言ってくる」ということについては、


「その友達は、きっと心のどこかでわかってるんじゃないかな、自分がそういう人間だってことを。だけどそれを見て見ぬふりして逃げてるだけ。おおかみさんがそんなこと言われたからって気にする必要ないし、それは友達が自分でなんとかしなきゃいけないことだから」
「おおかみさん。トゲの付いたボールを剛速球で投げつけられたら、そのボールを引っ剥がして、トゲが見えなくなるまでラップを巻けばいいの。トゲにラップ。忘れないで」


「ココロのどこかでわかってる」?
いったいどういうことだろう。

その人の言ったことがすぐには理解できなかったので、自分なりに考えてみることにした。

そもそも、誰かに向けて発した悪口はブーメランになって自分に返ってくると聞いたことがある。それはてっきり、「悪口を吐くような態度を取っているとそれ相応の報いがある」ということだと思っていた。もちろんそれも、間違いではないとは思うのだが。

ツェさんがわたしに言った、わたしがツェさんに言いたいこと。
その正体はなんだろう。
考えてみると、それはそっくりそのまま、「ツェさんが一番言われたくないこと」なんだろうと予想がついた。つまり、ツェさんの弱点というか、急所だ。
そう考えてみると、ツェさんは自分で自分の弱点であり急所を、わたしに晒したことになる。

昔、確かアドラー心理学の本で読んだのだが、

「我を忘れて怒るのではない。その場を支配するために、怒りの感情を利用したに過ぎない。」

ということが書かれていた。そしてまた別の本には、

他人のことを攻撃する人は、自分自身になにがしかの弱さを抱えた人間だ

ということも書かれていた。

他者(わたし)より優位にいたいがために、怒りで場を支配し、ツェさんは自分が正しい、あなたは間違っているから私に従うべき、と言うつもりでわたしに罵詈雑言を吐いてきた。
しかしその言葉の内容は、他ならぬツェさん自身の弱さであり、急所だったのだ。
怒りはなにかに期待してそれが裏切られたときの感情でもあるから、その罵詈雑言がツェさん自身のことを表すのだとすれば、それはつまりツェさん自身が自分で自分に期待したものの、その期待を自分で裏切っていることにもなるだろう。つまり、相手を責めるつもりで言った悪口が、そのまま自分自身を責める言葉だったということだ。悪口が、そのまま自分に跳ね返ってきているのだ。

ここまで考えて、まだ罵詈雑言への急性反応は残っていたものの、おおよそツェさんへの気持ちは、ますます「とてもかわいそうな人だな」というものに変わっていた。

ツェさんが罵詈雑言を吐いてきたときに、

「それってあなたのことだよね」

と言ってしまえば、やり返したことになったのだろうが、それは子どもの所業。「バカって言ったほうがバカなんです〜」というやつだ。

わたしはそうする代わりに、ツェさんの罵詈雑言を一切、無視した。

そもそも、自分の感情には自分で責任を持たなければいけない、ということを、さくら先生や桃子先生から学んだわたしは、特に怒りのようなマイナス感情は撒き散らすべきではないことを痛いほど知っている。だからこそ、無視したのだ。その気持ちに向き合うべきなのは、ツェさん自身なのだから。

結局、わたしから思うような反応が得られなかったツェさんは怒り狂って、「あなたとは縁を切る」とまで発言してきた。その後もわたしに対してかえしのついたトゲつきボールを投げつけることをツェさんはやめることがなかったので、最終的には、ツェさんの思う通りにしてあげた。わたしの方から縁を切ったのだ。正直、そんな相手と関係を続けていられるほど、わたしも暇ではない。

いまでもたまにツェさんと遭遇することがあるのだが、そんなときわたしは必ず挨拶をしている。
一方のツェさんは、完全にわたしを無視してくる。

ツェさんはそうすることで怒りの気持ちをまだ表しているのだが、もうわたしもそれに取り合わない。ツェさんのやっていることは、小学生のいじめと変わらないことだ。
なんて馬鹿げているのだろう、幼稚な人だな、きっと周りの環境に恵まれずに八つ当たりするしかないのだろう、ああ、かわいそう。
そう思うと、ツェさんに対するネガティブな感情も和らいでいった。相談相手の言った「トゲにラップ」は、たぶんこういうことなのだろう。

こうしてわたしは、友人関係について「諦めた」のだった。


* * * * * * *


諦める。
それは、「物事の真理や道理を知る」ことであった。
それはわたしにとって、エベレストに登るという途方もない目標を、現実をよくよく鑑みて断念し、ただ遠くから眺めるに留めるようなことであった。

その「諦め」の内容は、

他人に期待しすぎないこと。
他人に対する理想は自分の中のエゴでしかないこと。
他人は変わらないこと。
他人と自分を同一視せず、一定の心理的距離をおいて接すること。
そうすることで優しさを相手に持つこと。
ひいては尊敬の念を忘れないこと。

他人には、わたしに期待する役割がある…こともある、ということ。
譲れない価値観を大切にして、むやみに迎合しないこと。
自分のほんとうの望みを知ること。
やってみないとわからないこともある、ということ。

余裕のない人は、自分の周りの人を自分より不幸に仕立て上げることで、優越感に浸ろうとすること。
そもそも怒りは、何かを期待したときに生まれる感情だということ。
他人に悪意を向けたり悪口を言ったりする人は、その内容がつまり自分の弱点であり急所であって、そこから逃げているにすぎないこと。
つまり、その悪口は悪口を言っている自分自身に対する非難や糾弾なのだということ。
つまり、自分で自分に期待しているのにその自分が期待を裏切っているのだということ。
(特にネガティブな)感情は、自分自身で責任を持つべきものであって、他人にぶつけたり撒き散らしてはいけないものだということ。
そうした感情をぶつけられたら、同じ言葉を返すよりも無視して相手にしないのが大人の対応だということ。
いい大人になってそうした感情をぶつけてくるような相手は精神的にまだ幼く、置かれている状況を周りが理解して気を付けて様子を見ていかねばならない、いわば「かわいそうな人」だということ。

人間関係において、これが「真理」なのかはわからない。しかし、これらの気付きを得たことが、それがそのままずばりわたしにとって「諦め」だったのだ。

また一歩、学びが深まった気がする。

強いて言えば、「怒り」の感情から少しずつ、ほんの少しずつ解放されようとしているのかもしれない。

わたしの周りにいる素敵な大人たちは、いつも笑顔を絶やさず、誰かに怒りなどのネガティブな感情を見せたりすることがなくて、常に穏やかに振る舞っている。
わたしも、そんな大人になりたいと思った。
いまのわたしなら、なれるかもしれない。
いや、なれるだろう。
まだまだわたしの人生は始まったばかり、伸びしろはたくさんある。

日々の生活で得た気づきを通して、「諦め」の境地で、常に学びの姿勢でいることを忘れないようにしたい。




今回の記事はここまで。

長かったですね。ここまで読んでくださりありがとうございます。

皆さんには、ほんとうの意味で「諦めた」経験はありますか?よければコメントでエピソードをお聞かせください。

次回の記事もお楽しみに。それでは。






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