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色彩の魔術師に敬意を込めて

2020年10月4日、日本が誇る世界の高田賢三がこの世を去った。

「KENZO」

70年代ファッション界の革命児としてイヴ・サンローランと肩を並べ、フランス、パリではじめて日本人が認められる、成功出来ると証明したファッションデザイナー。
業界で革命を起こした文化服装学園、花の9期生までも、コロナウイルスは飲み込んだ。

はじめて賢三さんのルックを観たのはいつだっただろう。高校生の夏休み、大量のスケッチデザイン画を提出しなければならなかった時か。
本屋や図書館に出かけては、片っ端からファッション誌を読み漁った。
アレキサンダーマックイーンにジョン・ガリアーノ…当時90年〜2000年代にかけてのファッション界は彼等がかなり目立ってみえた。
「KENZO」というブランドは終わりを迎えつつあったと、後に私は知る。
だがその当時の私には賢三さんの作品は違ってみえてたのだ。
ページをペラペラと早回しし、逆再生しながら、
"なんだこの、エスニックでいてフォークロアなスタイル?花柄と花柄のあわせ?軍服?…こっちは着物。ジャポニズム?"
高校生には理解のキャパを遥かに超える作品が目に留まったのである。
恐ろしい程の色彩感覚の持ち主。
地球上の昆虫や植物、動物、衣食住、自然界に存在する全ての絶対的色彩のバランスを、高田賢三は持っている。
あの時直感的にそれを感じた。
その持ち物、私も欲しいと強く願った。
それがはじめての出会いだった。

当時私の住む沖縄には民族ショップが幾つか点在していて、染色されたターバンや裾につれてブカブカっと大きくなるサルエルパンツ、モロッコのフエルトで出来たポンポンのヘアゴムや、ネパールやアフリカのシルバーアクセサリー、革雑貨、ビーズや金糸の刺繍が施されたベストに帽子、ガムランやカリンバ、シタールにジャンベ、ディジュリドゥの音色、象の置物に水晶の欠片、ホワイトセージの匂い。その全てに魅せられた。
エスニックスタイルに目覚めた瞬間である。
高校の卒業アルバム。クラス全員で水族館に出向いた日の写真には、ターバン姿の私が映り込んでいる。年に1度の服飾科ファッションショーの為に、茶と赤のモール毛糸をNBAプレイヤーのアイバーソンの様に頭に編み込んだ事もあった。

"ああ、そんな時代もあったな"とフワフワ記憶が蘇る。今も時たま編み込みでなくとも、ハンカチーフを引っ張り出して来て、頭に巻く習慣は変わらないのだ。

写真越しの賢三さんは、スカーフは巻かないがストールを首に流す様にかけていた。
あんなに丸眼鏡とスカーフを軽やかに着こなせる人も少ない様に思う。
勿論、肉眼でお目にかかる事は最後まで叶わなかったが。
常にシワのないシャツは、袖丈、カフスの長さまでも、手首の骨よりやや長めにピッタリとあわせており、暗めのセットアップにニットベストをチョイスする。
そう、このニットというアイテムも高田賢三の名を、世に知らしめる事となる。
70年代初期は、平面的に編んだスクエアネックの半袖ニットが注目を集め、マリンルックという言葉と共に、瞬く間に世界に知れ渡る。かと思えば、羊の脚を思わせる、(レッグ・オブ・マトン袖)ふっくらとしたシルエットを長袖ニットに落とし込み、アイコニックで可愛らしいマリンルックと打って変わり、シックでエレガンスな自立した女性像を彷彿させる。

今はネットでメンズ中心にニットアイテムも見つかる様になったが、渋谷・原宿・高円寺・下北沢・吉祥寺等の古着屋でたまに目にする。彼が手がけた、ゴブラン織ニットや着物袖の半袖ニットは、オートクチュールの70年代には存在しないものだった。そう、プレタポルテがやってくるのもこの時期だ。

高田賢三さんは、世界を旅した。
その一方で、上から100枚のデザイン画をかけと言われればやってのける。
夜はパーティーに出かけ、連れに奢り、翌朝には財布はすっからかん。逆に連れからお金を借りてお昼を食べる。そんなチャーミングで星の王子様の様な方だったそうだ。

ファッションショーという舞台を、受注の為の作品発表をするクラシカルな場でなく、パーティーに近い躍動する楽しい場に変えた第一人者も彼だ。ショーというものに初めて「音楽」を導入し、作り手と客を巻き込む一体型のステージを完成させる。モデルと肩を組み、楽しそうにランウェイに登場する様は、他ブランドでも当たり前になったかもしれないが、当時のファッション界では衝撃的で、歴史、固定概念を打ち砕いた瞬間であった。

三味線の音に芸妓の舞いと風の匂い。
彼は、兵庫県は姫路、梅ヶ枝町。
姫路城の北側に位置する花街で育つ。
両親が営む「浪花楼」と言われるその建物は"待合"と呼ばれる。京都でいう"お茶屋"であろう。待合とは主に芸妓との待ち合わせ、貸座敷であり、遊興や飲食の場であるが、江戸時代まで遡ると、御殿女中や後家が密会の為に利用したともある。
待合・料亭・芸妓置屋は三業と呼ばれ、そのしきたりやシステム上「一見さんお断り」の文字を京都、先斗町付近を歩くとよく目にするだろう。
話が脱線したが、つまり高田賢三さんは幼少期からそういった艶やかな衣達と親しかったのかもしれない。
音色に混じる笑い声の中で育まれた感性は、美しく大輪の花を咲かせ、散りゆく花びらは海を渡り、サンローランの様な大樹に出逢い、新たな蕾を互いに宿したのだ。

如何に身体にフィットさせるかを追求したオートクチュールの時代に、"直線裁ち"をあえて加え、身体にそわないデザインを掲げる。

"アンチクチュール"

人はそう呼ぶ。

"直線裁ち"は"反抗裁ち"だった。
ユーモアラスな高田賢三さんが垣間見える言葉遊びだ。
時代の流れをよみながらも、独自の視点で自ら道を切り開く。反骨精神と闘争心のパイオニアは、多くの若者、民衆を参道させたに違いない。

その内に時代はニューウェイヴ。70年後半から80年、若者達がパンクロックに目覚め、ミュージシャンもそれ以外もパンクロックファッションを着こなす時代がくる。
60年代からのビートルズに続き、セックス・ピストルズがU.K.でアナーキーして、クイーンがディープパープルやツェッペリンの亜流だと罵られ、80年に入ったらあっという間にマイケルジャクソンのスリラーが土の上を這い回るゾンビ仲間を引き連れて、月夜に暴れまくる。
70年後半〜80年のパンクロックファッションと共に、ファッション界はヴィヴィアン・ウエストウッドが登場した時期でもある。
そもそもウエストウッド自体がセックスピストルズと深い関わりがある事は、ご存知の方も多いかもしれない。
ちなみに"ラ・ラ・ランド"で有名になったエマ・ストーン演じる映画「クルエラ」の衣装部門を全て担当したジェニー・ビーヴァンは、クルエラの衣装は(全ルック47体)、70年のウエストウッドの影響を大きく受けていると話している。(装苑)
ジェニービーヴァンはこれまた音楽映画といってもいい「マッドマックス 怒りのデスロード」で有名になった衣裳デザイナーだ。
筆者は「アンナと王様」の作品も好きだが。

パンクロックとやってる内に、80年代では
コムデギャルソンの川久保玲や、ヨウジヤマモトの山本耀司が賢三さんやコシノヒロコ・ジュンコ姉妹、イッセイミヤケを追いかける様に、斬新で真っ黒なコレクションを発表する。そう「カラス族」の到来だ。

筆者は、かなり長々と陳腐な語りべに徹しており、読者から顰蹙を買いそうなので長話はこの位にしておくが、
不思議な事に時代と音楽とファッション、そして映画や本、風土、全てのルーツは点と点で結びつく。カシオペア座、北斗七星から、北極星を見つける事が出来る様に、同じ空には無限大の可能性があるのかもしれない。

賢三さんの反骨精神と並ならぬ行動力は、日本人デザイナーだけでなく、きっとマックイーンやガリアーノだって影響を受けた筈だと私は思うのだ。ゴッホが葛飾北斎に影響を受けた様に。

2020年の現代を生きる皆さんは何を思うだろう?
歴史や思い出は紡ぐ事が出来ようと、今の私達は何を継承し、何を産み出す事ができるのか?
ウイルス一つで全てを奪われ、奪い合う世の中はもう目の前にある。いや始まっているのだ。
高田賢三という男は、ファッションを通して、異文化は一つであると証明した。
私はただそれを伝えたい。


高田賢三さん永遠に。私たちの心に。
私の人生に、色という魔法をかけてくれてありがとうございました。
安らかに。
どうかあの世という天国で、近藤敦子さん、イヴ・サンローランさんや山本寛斎さん、大好きなアンリ・ルソーさん等、沢山のお仲間とパーティーが出来ます様に。大好きなシャンパンを昼から注いで、パリに沈む夕日と月明かりを見守って下さい。日本の四季と世界の窓がまた一つになる事を夢みて、共に祈って下さい。

ご冥福をお祈り致します。

※新宿にある文化学園服飾博物館での
「高田賢三回顧展」は6/26まで。

影響を受けた音楽▷▷▷
Cry Baby〜Janis Joplin〜
Funky Tonight〜John Butler Trio〜
カルアミルク 〜クラムボン〜
エナジー風呂 
〜U-zhaan&Ryuichi Sakamoto feat.環ROY&鎮座DOPENESS〜
Norwegian Wood 〜The Beatles〜
OMOTINO 2011(Live at 静岡「頂」)
〜GOMA&JUNGLE RHYTHM SECTION〜
Iet go 〜haruka nakamura(feat.Nujabes)〜

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