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暴力のための抽象性or表現のための普遍性

ふと浮かんだ考え事を
パパッと書き留めるシリーズです。

今回は「デカい話」です。

「デカい主語」という概念が
警戒対象として浸透している今の時代ですが、

デカいと暴力性を孕むものは決して
主語に限らないと感じます。

ただし、抽象性ある表現であれば
すべて刈り取るのがよい、というのもまた
思考停止であり、暴力の論理に該当し、
また賢明でもありません。

私が思う抽象性の良い使い方は、
概念領域において、可能な範囲で
謹厳な定義と限定を行なってからのものです。

ここの定義と限定は広義的なもので、
表現形式で作られるコンテキストも
含まれます。

例えば、フィクションの物語、禅問答の譬え話、感情の昇華表現である詩歌などが
そうです。

フィクションでなければ、
個人の信念ならそうと声明し、
研究ならば出典や根拠を明記し、
報道ならば事実と主観を分けるのが
良いでしょう。

普遍性あるものを描き、思索を巡らすには
抽象性と概念が必要なツールとなります。
理解の前の見当違いの忌避は、
概念領域の議論を理解できず
人格的な否定または人格を支えた信仰を
挑戦されたと受け取る恐れによるものです。

一方、生身の人間または具体的な集団に
向ける言葉で、主語も主語以外も
大きく強い言葉を、曖昧な定義のまま
抽象的な概念が乱用されていれば、
それは既にコミュニケーション可能性を
持つ言葉ではなく、言葉を塗った暴力性です。

多くの場合これらは断言の形を取り、
権利ある側から一方的に
正義の裁きや合理的懲罰のニュアンスで
なされます。

パワーによるハラスメントの現れです。

権利が集中し、ヒエラルキーが際立つ場合、
どうしても顕著になりやすいようです。

三権分立の基本思想から想像できるように、
法の側に、統治者が法を作り変えながら
その地位と権限を行使できてしまったら
このようなことは避け難い状況です。

集団員を縛り付けるイデオロギーのような
大きな形態を取る場合もあれば、
極めて微妙で分かりづらい
小さなコミュニティや生活/協働共同体の
擬似密室に起きることもあります。

関係性というのは
一種の非言語的コンテキストです。
関係性の中で様々な暗号や合言葉が
作られ、その氷山の一角が断片的な言葉で、
その他夥しい内容と背景が、
記憶や繰り返された形式などにあります。

関係性の外部にあるものにとっては
海亀のスープになっているレベルであるのが
自然です。

すると
コンテキストが乏しくなる/カバーしきれない
純粋に関係値が足りない者へ、
または多数への
スローガン/アナウンス/伝達/命令……etc.は
十分なコンテキストの蓄積が
不可能だという意味において
大きな概念は意味内容として
機能することができません。

でもそれらの発信は
元の目的という意味では機能はしています。
受信側の意味内容の理解と合意に
基づくのではなく、
余地の許さない判決の通達として
機能するのであります。

支配と統制、
特に時間制限と効率要求がある場合、
応答性が内包する揺れ動く
不安定さと混乱とは相容れないことは
理解しやすいことです。

したがって行動を誘導しまたは強制するため
多数に向けた言葉は
このように暴力性から
完全に離脱することはできないと考えます。

その上で、可能な限り
具体的事実や目的にフォーカスすることで
シンプルかつクリアに言葉、内容、感情に
心を砕きたいものです。

心を砕くというしんどそうなイメージの
表現を書いたものの
これをやるほど
伝える側も受ける側も楽になるのです。

なぜなら、
本来内容伝達に不必要な
暴力性によるノイズがなくなるほど
合意や理解のレベルが深くなります。
さらに、
思考停止とセットの服従ではないため、
死んだ結論の執行ではなく
生きた柔軟な集団知性が目的のために
自主的に行動することになります。


抽象性のパワーに逃げて
他人を裁くことで
自身の権利を強化する錯覚の誘惑に
流されないように。

抽象性の暴力性に怯えることなく
普遍的なことを発見し指し示すための
ツールとして言葉を正しく扱う誠実さと勇気を
忘れないように。

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