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「精神分析を生きる」

精神分析というものは多分ほとんどの人が耳慣れない単語だろう。

多分note上で、

知って得する心理学!考え方で仕事の効率が変わる!


とか訳のわかんないエビデンスのないことばっかり書いて、
有料noteで稼いでるクソ野郎もそんなに知らないのでは。


知ってる人も

フロイトのなんか、とか

意識と無意識がなんか、とか

そのくらいだと思う。


わたしも多分勉強してなければ明らかに

マジックザギャザリングのカードの名前か?
おそらく相手の手札を見るたいぷのカードだな。

としか思わなかったろう。


先週の土曜日に大学の教授の最終講義を聴講しに行った。

藤山直樹先生という精神分析の教授の方である。

わたしは3,4年生の時にゼミに所属していて
他の授業と比べたら熱心に聴講していたと思う。

卒業後は人並みに就職したのでその道に進むわけでもなかった。

精神分析の授業は受けたが、

わたしは「精神分析」そのものについては何も知らず、
「精神分析」の知識について一般的な日本人よりも多少知っているくらいだ。


マッサージを受けたことない人間がツボについて知ってても
マッサージを語ることはできないとかそんな感じ。

学問ではなく体験とか営みとかそういうものなのだ。

欧州の国にはマッサージ師と同じくらい精神分析家が存在していて、
それくらい人々にとって身近な存在なんだとか。

精神分析というものはとても興味深いもので、
学生時代の、そして今のわたしも惹きつけるものなのだけど、
それを体験したことのないわたしは語る口も持たなくて黙。


精神分析という体験、あるいは分析家と患者の関係性の中に生まれる何か。

そこ(というかそれについて語られた言葉)から感じたり考えたりすることは自分のこころ
(そんなものがあるかという議論は置いておいて)
と向き合う上で
1つの標になってくれているような気がする。

自分のこころを見つめる自分。とかなんとかそんなもの。

誰かに少しでも知ってほしいけどわたしに語ることは出来ないジレンマ。





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