見出し画像

【教会建築・内陣仕切り壁】          エスリンゲンの場合

シュトゥットガルト南東に位置する、ネッカー川流域の町エスリンゲン。
新石器時代の定住跡が見られ、ローマ帝国の一部にもなり、8世紀の公文書に記録が残る古い町です。12世紀からは神聖ローマ帝国の帝国都市となり、街の中にはあちらこちらにその歴史を誇る鷲の紋章のついた建造物があります。

画像1

街の中心部に建つ聖デュオニュシウス教会は1220年頃に建設が始められ、14世紀半ばに完成しました。

画像4

3廊のバジリカ式教会で、身廊はアーケードと上部の高窓の2層構造。19世紀末の修復工事でかつての壁画や色彩装飾はほとんど取り除かれ、15世紀に描かれた聖人レオンハルトの壁画が一部残っているだけです。天井もこの時に木製の平天井になっています。

この教会にはとても珍しい、かつて中世の教会に多く備え付けられていたLettner(ドイツ語圏での建築用語・レットナー)と呼ばれる、内陣と身廊を隔てる仕切りが残っています。

画像4
Lettner 正面

Lettnerは聖職者の領域である内陣と一般信者が座る身廊とを仕切る役割を持っていました。一般信者は礼拝中に内陣でとり行われる秘跡をこの仕切り壁(格子状のようなものもある)を隔ててしか体験することができませんでした。仕切りといっても通常は木製や石製で装飾が施されており、内陣の幅いっぱいを占めており動かせるものではありません。

ここエスリンゲンのLettnerは15世紀後半の後期ゴシック様式のもので、アーチが設けられており、通り抜け出来る奥行きのがあるのでその上は舞台のように一定の面積があります。その舞台上から一般信者に向けて説教がなされたり福音書の朗読が行われ、時には聖歌隊が歌うこともありました。

画像5
内陣から身廊を望む

宗教改革期に、聖書の教えだけが重要なので教会内の絵画や彫刻装飾を排除しようと主張したのがプロテスタント派です。それに対抗するため、音楽や美術を用いて信者の感覚に劇的に訴えて宗教感情を喚起することを有効としたカトリック派の教会では、この信者と内陣を隔てるバリアが取り除かれることになりました。教会の一番奥まった場所で厳かに執り行われる儀式を一般信者も見聞きすることによってカトリック教徒としての自覚を得たのです。

でもエスリンゲンは宗教改革期にプロテスタントの町となることを選択し、聖デュオニュシウス教会もプロテスタントの教会になったせいでLettnerが残ったのではないでしょうか。今でもカトリック教徒より若干プロテスタント派の方が多くなっています。

またLettnerが残されたもう一つの理由は、かつて教会の南塔に市の古文書・資料室があって、このLettnerの上を通ってしかアクセス出来なかったから、のようです。