「姿勢を正しく」~元々と教え~

今から丁度、50年前。
昭和48年(1973)は、わたしが小学校にあがった年である。
あさま山荘事件に、パンダが日本に初来日等々。前後して起こった様々を見ると、まさに「伝説」。伝説の時代だ。カラーテレビや、一般家庭へ黒電話が完全に普及した頃でもあろう。
同じく誕生した商品や、設立・創業された企業も多い。
昭和41年(1966)。
ビートルズが来日、日曜洋画劇場&笑点。グリコのポッキー、奥さまは魔女と、これまた様々が誕生した年に生まれた赤ん坊達も、目出度く学童になった訳だ。「丙午」
今でこそ冷笑。「何だ」で終わる干支の生まれでもあるけども、当時は影響が強く、ボコッと出生率が少ない。特に我々、女の子ちゃんは少ない。「男を喰う」事件の2人の女性の重なりが、丙午であった故だ。

入った小学校は、全学年3クラス。
今もあるけど、第一印象として古めかしい。木造校舎が名物だ。当時で開校20年ぐらいだった。1年生はクラスの色が決まっていて、1組は「赤」、2組は「黄」、3組は「青」。信号の色である。下駄入れに大きな信号機の模型(?)があった。業者が厚い板にペンキで描いたのだろう。
多少の校則。掟もある。
「1年生と2年生は、木造校舎に」絶対的な、第一の掟だ。
入学早々、お達しされる。
(え~っ。木造校舎?)
「学校には知らない大人(=先生)が、いっぱいいる」
タダですら避けたい、ゆかなくてもいい方法はないかと考えていたから、ゲンナリした。

そこへ追い打ちが掛かった。担任の先生だ。
怖い。理由もないのに、怖すぎる。毎年、毎年、1年生。1年生専属みたいな先生であった。今にして思うと、受け持たれて幸せだったが、当時は違った。怖い。怖いだけが感情であった。
<大正生まれ><教育者><1年生専属>3つを足して諸々を加えると、ああなるのかも知れない。
「姿勢を正しく」二言目には言ってくる。
事情でもない限り、常に背筋をまっすぐ伸ばす。席に座っている時は勿論、普段の歩く時でも背中を曲げない、真っ直ぐに。
年齢的にわたし達には、修行である。時には苦行ともなり得る。
「し・せ・い・が・わ・る・い」
授業中、机間巡視をなさりながら、良くない子の背を伸ばされていたのを思い出す。言うだけあって先生は、胸まで張られる姿勢の良さだ。そこまでする必要はない。
「わたしが子供の頃、姿勢が悪い子供は、背中に物差しを入れられた」との話を聞いた時には、心底、ビビッてしまった。

1年生が終わる頃、
「もう先生とは、お別れだねぇ」「わたし達は2年生になるけど、先生って、ずっと1年生じゃん。だから又、1年生を担任するよ」「キビしさから、やっと解放されるのね」
密談し合ったわたし達の期待は、裏切られてしまった。その年に限って、何故か先生も2年生を受け持たれた。クラス替えはない。2年間の受け持ちである。あのキビしさが再びと思ったが、1年生の時よりキビしくなかった。

転校し、他県へ。中学生になり、高校を卒業し、、、、。
ずっとずっとの月日が経った。

社会人となったある日。「姿勢がいいね。ぴしっとしてるね」。
仕事をしていると、背中に掛かる声がある。「そうですか?ありがとうございます」
通勤電車で時に見ると、言われた通りだ。亡母からも時々、言われていたし、ご近所さんでも評判である。あの時の教えに感謝して云々、筆の締めを思うだろう。それもある。
けど、元々。元々わたしにも思い。正しい姿勢=カッコいい!キチンとして見える。ちょいと大股で歩けば、颯爽として見えるもんね!いいわぁ、わたしの理想だわぁ~っ。
的な考えがあったのではあるまいか?
それでなければ、「姿勢を正しく」に対して、反発。「ケッ!なんでぇ!」あの時は先生に怒られるから、正しくしていただけだもんねぇ~っ。今や関係ないわいな。
そんなのが芽吹きに芽吹き、爆発していたであろう。

元々がわたしにあったから、後々までに教えが響き、活かされたのである。
共通するものがなければ、幾ら真剣に教え、教わったつもりになっても、
響くものがあるまい。余韻もなく、知らず忘れてゆくのである。

のちに、掌童話「姿勢を正しく」を書いた。「児童文芸 2018年 4・5月号」(日本児童文芸家協会)の「童話の小箱」に投稿作品として掲載された。あの経験からだ。
                         <了>

#大切にしている教え

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