見出し画像

#わたしをかたちづくったもの 筋トレ賛歌

「筋トレはいいぞ」

SNSでそんな言葉を耳にしたことはないだろうか。「ない」ならば、たぶんそれは君がその世界に触れていないだけだ。

競技のプロから趣味のアマチュアまで、筋トレを日常的に行う人たちは、この言葉をつぶやきがちだ(私調べ)。

数年前、Twitterで筋トレのすばらしさを賛美する呟きを眺めながら、「なにがそんなにいいんだ? 重いものを持ち上げて苦しいのに?」と思っていた。

それが今や。娘を学校に送り届け、徒歩圏内の距離のジムへと向かう。私の腕の3倍以上はあるタトゥーの入った屈強な男たちに囲まれながら、脳内で「筋トレはいいぞ」とつぶやいてしまう。だって、筋肉は裏切らない

いつもの私の文章との違いに、みんなが引いている気がする。まあ気にせず、筋トレの良さについて持論を展開しておこう。

あえて強い言葉を使うなら、筋肉とは若さだ。

重力にあらがい、身体の輪郭を保つもの。それが筋肉。筋肉があれば、ぷよぷよの腕も、垂れ下がったケツも、いつのまにか柔らかくなった太ももさえ、彫刻のような陰影をもつシルエットを維持してくれる。

私が筋トレと出会ったのは、産後もとうに過ぎたころ。風船のように膨らんだお腹を救ってくれたのが、筋トレだった。

これを読んでいるあなたの脳内には、ボディビルダーの大会に出場するキレッキレの肉体が思い浮かんでいるかもしれないけれど、そのイメージを私に当てはめるのは間違っている

私はただの在宅ライター。車社会で生活しているため、日常的に運動する機会はほぼゼロ。ジムでの筋トレは、私の健康の生命線だ。筋肉とは若さと豪語したけれど、美を目指しているのではなく、健康維持の手段として筋トレをしているに過ぎない。

筋トレはいいぞと賛美する一方で、この言葉がある種、煙たがられる側面があることを知っている。なぜなら、筋トレの良さ語りは人の外見へ言及するものであり、それが他者へと向いたとき、現状の批判になったり価値観の押し付けになったりするからだ

筋トレでどばどばアドレナリンが出ている人が、筋トレへ興味のない人に、「いいよ!いいよ!」と勧めまくるのは、冷静に考えてうざったいったらありゃしない。

それを良いと感じるか、好きになるかは人それぞれ。どんなに自分が愛してやまないものでも、安易に人に押し付けたりしないよう、心のなかで自制を働かせておきたい。

一方で、自分へと向かう「好き」の矢印は「道」となる。

筋肉に裏切られないためには、身体と栄養の知識と適切な実践があってこそだ。やみくもに頑張って成果が出るのは初期だけで、理想とするゴールとそこに至るまでのスキルや術がないと、目標にはたどり着けないと思い知る。

手を動かすアウトプットだけではなく、実践を支えるインプットの両輪が必要だ。

過度に頑張りすぎれば故障する。自分の限界値をコントロールするのも大切だ。かといって、サボれば感覚は鈍る。一度休んだとしても、再会して続けていれば、目指すほうへと近づけることを知る。

筋トレ人生論みたいなことを書いたけれど、なにも筋トレだけに限らない。ヨガ、登山、音楽、映画、コーヒー、マンガ……広くでも浅くでも、「好き」と触れ合っていることで、人は自分の世界を形作っていくのだろう


40キロのバーベルを握りしめ、歯を食いしばって10回1セットの残りの2回を上げる。傍からみたら、なにをしてるんだと思われるだろう。でも、いいのだ。この1キロが、1回が、明日の私をつくってくれるのだから。

好きがある日常は素敵だ。だから私は、今日もひっそりと、筋トレはいいぞと心のなかで呟いている。

--

(こちらの企画に参加しています。第二回「#わたしをかたちづくったもの」)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?