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トゲトゲ人間と正しさ

今回は愚痴回です。

私はここ一年ほどで、しんどくてしんどくてたまらなかった実親と縁を切り、こちらの心を容赦なくぶん殴ってくるブラック企業からの転職を果たしました。
そして大好きな人と結婚し、2人きりで暮らし始めることになりました。
その結果、私の周りには、一年ほど前まではたくさんいた「私の心情をめちゃくちゃにして心や魂を引き裂いてくる人」というのがほとんど全くいなくなりました。

そういう人が身の周りにいないことが普通なのか、はたまたそういう人が身近にいることが普通なのか、どちらが多数なのか私にはわかりませんが。
今まで地獄を生きてきた私にとっては、ようやく「安住の地」を得たという気分で、苦しいことやしんどいことから遠ざかり、何か柔らかくて、温かくて、少しいい匂いのするような生活をここしばらく送っていたのです。

そんな幸福と安寧にくるまれてぬくぬくと過ごしていた私の前に、最近再び、新たに、「トゲトゲ人間」が現れました。
仕事上での話です。

すっかり腑抜けていた私は、ダイレクトにそのトゲトゲをくらってしまいました。
一年前までの私なら、簡単に傷付かないよう鎧をたくさん着込んでいたし、負傷を最小限にできるよう常に身構えていたし、何かあればすぐに逃げられるように心構えをして、それと同時に瞬時に刺し返せるよう心にナイフを忍ばせていました。
しかし、満たされた生活を送るうちに、気付かぬ間に私の心の防御力はどんどん下がっていってしまっていたのです。

今回私が遭遇したトゲトゲ人間は、私に向かってトゲを発射してくるタイプではなく、自身の周囲に向かってシュババババ!とトゲを撒き散らすタイプの人でした。
その結果、私にもいくらかトゲは刺さりましたが、そのトゲにより私よりもずっと重傷を負う人が私の周りにでてきてしまいました。

これはINFJの特徴でもあるかもしれませんが、私は、自分に刺さったトゲよりも、身の周りの人に刺さったトゲの方がずっと痛いと感じてしまいます。
何故防げなかった?事前にどうにかできなかった?
もっと思慮深く、もっと計画的に、もっと入念に対処していれば、トゲの発射は未然に防げたのでは?
それが無理でも、じゃあ、私が身を挺していれば、周りの人の盾になることくらいはできたんじゃないの?
そんなふうに、心にずっしりと重いものがのしかかってくるのです。

はっきりと言いますが、今回の件は、私には特に非はなかったと思っています。
この事態をある程度は予見していたし、周囲にも注意を呼び掛けていたし、頼れる人に救援要請も出していた。
そして、トゲトゲ人間を直接刺激することはなく、むしろ率先してにこにこしながら対応し、トゲが発射されないように細心の注意を払っていたつもりです。
私にできるだけのことは、していたつもりなのです。

けれど、そんなことでなんとかなるのであれば、それはトゲトゲ人間とは呼ばないですよね。忘れてしまっていました。
どんなに頑張って、どんなに気を付けていても、理不尽に、無遠慮に、否応なく爆発してしまうのがトゲトゲ人間というもの。
どうしようもなく、突然、利己的に周りの人間を傷付けてしまうのがトゲトゲ人間というものなのです。

私は最善を尽くしていたつもりでしたが、だめでした。
そして、最善を尽くしていたつもりでも、結局周りの人が傷付いているさまを見てしまうと、やっぱり「もっと何かできたのでは」と思ってしまうのです。

なんなのでしょうね。
どうして、そんなふうに周りの人を傷付けることができるのでしょうか?
トゲトゲ人間本人にとってみれば、悪意や害意はなかったのかもしれません。ただ、自分が正しいと思うことをしただけ。
でも、それが「過ちを犯した人を、息の根が止まるまで滅多刺しにする」みたいなことであったり、あるいは「見る角度によって正しさが変わるような物事について、自身の思う正しさを押し付けて正論で殴ろうとする」みたいなことだった場合。

正しさなんて、クソくらえですよね。
仕事上で、職場というコミュニティで、どんな理由があれど他人を強く殴ることに、何の意味があるのでしょうか?

私は正直、そのトゲトゲ人間が「絶対的な正しさ」を持っているとは思っていません。もちろん、100%間違っているとも思いませんが、郷に入っては郷に従えという言葉もあるように、そこにいるのが「人」である以上、臨機応変が必要とされる場面なんていくらでもあると思います。
例えば、仮に自分の意見が100%正しい場面だったとしても、それを自分の会社の社長に向かって「お前は間違ってるぞー!」なんて喚いた日には、クビになるか、ならなくても職場のみんなに煙たがられて避けられる存在になるだけですよね。
どうして、そういう部分の、想像ができないのでしょうか?

正しさを追い求める姿勢は立派だと思います。
でも、自身の正しさを主張することに、何の意味があるのでしょう?
その主張で、「世界が正しくなる」可能性がどのくらいあると思っているのでしょうか?
正しさを、理想を叶えたいのであれば、正論で他人をぼこぼこにするよりも有用なことがいくらでもあるのではないのでしょうか?

私自身も、正しくありたいという気持ちは強い方かもしれません。
でもそれは、自分自身に求めるものであって、他人に押し付けたり、他人に求めたりするものではないと思います。
だって、他人の目に世界がどう見えているかなんて、わかりっこないじゃないですか。
見えているものが違うのに価値観を揃えようなんて、土台無理な話です。

もし、どうしてもその齟齬が許せなかった場合は、他人を傷付ける方法以外で何かを変えようと努力するでしょうし、それでも無理だった場合は、「ここは自分の居場所ではなかったのだな」と身を引くでしょう。
仕事でなければ、「自分はしたいようにしたいんだー!」と自身の「巣作り」を行うことは一概には否定できませんし、むしろ心地よく生きていくためにそれは必要なことだと思います。
でも、職場は、あなたの巣ではありません。私の巣でもありません。
ぎゃー!と暴れてトゲを発射して、それで何が達成できるのでしょうか。

そもそも、安易に他人を傷付けることができる精神も、相手が傷付くかもしれないと想像できない愚鈍さも、私の憎むべきところではありますが。
そういう要素を抱えているのが、トゲトゲ人間がトゲトゲ人間たる所以なのでしょうね。
周囲の人間はきっと、できるだけ負傷しないよう、自衛するしかないのでしょう。

いくら理屈の通じないトゲトゲ人間だからといって、「じゃあ、先手必勝だ!」とこちらから殴りかかる気には到底なりませんし。
私や、私の周りの人たちや、トゲトゲ人間のことを、仕事全体として考えたとき、私がトゲトゲ人間に対して怒ったり責めたりすることは、ほとんど意味を持たないどころかおそらく悪手であるでしょう。
そんなことをしたらきっと、トゲトゲ人間は自分自身を守るために、より一層激しくトゲを撒き散らすでしょうから。

とはいえ、打つ手なし、というのもやはりもやもやしてしまいますね。
何か、もっと上手くできていれば、と。
立場上、私は「正しさだけが全てじゃないよ」というスタンスで対抗するしかないのですが、正しさを求めてしまう気持ちもわからなくはないだけに、何かと心苦しいです。

とりあえず、ひとまずは、聞こえてきた暴言や傷付いた人の涙の視認によって著しいダメージを負ってしまった自分を癒すことに、注力するとします。
だめですね。
どんなに幸福でも、やっぱり、仕事の時は、鎧を脱ぐべきではないのかもしれません。
でも、でも、手甲を付けていては人肌のぬくもりすらわからなくなってしまうではないですか。

仕事で人肌のぬくもりを感じようとするなという話なのですが、そうではなく、私はぬくもりが欲しいのではなく、ぬくもりを分け与えたいのですよ。
それには、鎧は、邪魔すぎる・・・。

幸福な人間が、心に余裕のある人間が率先してぬくもりを配るべきだと思っているのですが、なかなか上手くいきませんね。

はあ。
何か温かいものでも食べて、ゆっくり眠ろうと思います。

では、今回はこのへんで。

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