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目的に救われる日も、目的を手放したい日も、私は資本主義社会の中にいる

どちらかというと、ネガティブな人間だ。

「それを悟られたくない」というのは、自分を語りたくない理由の一つかもしれない。

ネガティブというか、現実をじっと観察したくなる性なので、口に出したことに対して相手が「とはいえ、こういうポジティブな捉え方もできるよね!…ね!!!!」と柔らかな世界の見方を提案してくれる気遣いをいつも申し訳なく感じるのも、語りたくない理由のような気がする。

ここ最近のついじっと観察した現実は「目的」のあれこれだ。

人は目的をつけたがる。いや、少なくとも資本主義社会においては、限られた資源をどのように使うかという軸として目的が大事だということは理解している(理解しようと努めている)

そして、自分以外の他者とともに何かをする上でも、目的は大変便利な言語にもなる(今までもたくさんお世話になっている)

ただ、目的を置くことで失われる何かもあるような気もしている。

私は普段、いわゆる「教育」と呼ばれることの多い場所にいるため、目的はかなり頻出の概念である(というか、おそらく教育に限らずとも、目的を持たない行為や企画は、少なくとも仕事と呼ばれるものにおいては存在しないのかもしれないが)

目的よりも「ねらい」という言葉に置き換えた方が、特に教育の場面では想像がつきやすいかもしれない。

ねらいとはつまり、学習機会を提供する人が学習する人(学習者)に身につけてほしいこと・達成してほしいことを意味する(のだと思う。正確な意義までは突き詰めていないけれども)

その「ねらい」に込められた意思に気づいたとき、私は目的へのなめらかな理解が揺らいだように思う。

提供者の敷いたレールの上で学べることは、果たしてどれぐらいあるのだろう。

学習機会を提供する人(先生はもちろん、先生以外の方も)はその機会のために様々な準備をしているし、そのための経験や知識も十分にあるし、そこへのリスペクトが前提である。

ただ、少なくとも学習機会を提供する人の一人になることもある自分にとっては、「ねらい」という言葉がどこか重い概念に感じてしまうのだ。

言い方を変えれば、自分以外の人が提供している学習機会におけるねらいは(いい意味で・肯定的に)なんとも思わない。

むしろ、堂々と機会を提供している(ように見えているだけかもしれないという想像は頭のどこかで思いを馳せつつ)ことに、羨ましさというか、自分とは違うと線引きをするような気持ちを持っているような気がする。

資本主義社会に適応するのだとしたら、ねらいを、目的を、設定することはできる。けれども、それによって失われる何かがあることに、私はこわさも感じる。

誰かの何かが変わるかもしれない可能性が手の隙間からこぼれ落ちるような、分かりもしない可能性を考え続けているような。


目的だけでつながっている関係性ならば、生まれていないものがあるのではないか。

大学ではじめて東京に出て、あらゆる人や関係性にあふれた街の喜怒哀楽を感じた。だからこそ、東京とは全く違うつながり方が当たり前の場所で、目的がないことの価値を考え始めているのかもしれない。

特に農業や林業などの一次産業の話に触れると、人間の力の及ばない何かとともに生きることが人間の宿命のような気もしてくる。

人間が暮らしを始めたことで生まれたよい共生もあれば、どこかでバランスが崩れてしまった共生もある。

自然や生き物には、目的という言葉だけで説明のつかないこともある。目的という言葉で説明ができたとしても、人間の力でどうにもできないことがある。

だからこそ、目的によらない関係性から生まれるものの価値を、ちゃんと価値としたいのかもしれない。

「その事業の目的は?」
「それをやって、どんなリターンがあるの?」

そういった問いかけに言葉をつまらせることにこそ、見えない・聞こえない言葉が宿っているのだと信じたい。

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