見出し画像

マーチ~あの人へ

あの人の名前を思い出そうとしている。ここ何週間か。

20代のある日。わたしはこんな詩を書いた。

 今朝は少し遅刻したみたい
 上司に声をかけられて 
 気まずそうな笑いを浮かべるあなた

 少し上司と話したあと 視線を上げると
 朝の陽ざしが目に入ったのか 右手を額にかざすあなた
 そのしぐさが眩しくて 心臓がどきっと音を立てた

わたしが「あなた」と書いた人。
わたしは彼の名前を思い出そうとしている。

初めて「あなた」を見たのは大学4年生の、きっと夏だ。ミンミン蝉の声が「あなた」を取り巻いていたから。
最寄り駅にあったディーラーに勤めていた営業マンだった。
「日産プリンスさん」
わたしは日記にそう書いて、ディーラーの前を通るたびにガラス張りのショールームをのぞき込み、彼の姿をいつも探していたのだ。
背の高い、すらっとした、営業マンらしいブルーグレー色のストライプスーツ。短いけど豊かな黒髪を無造作にかき上げながら、同僚と話しているときの柔和な笑み。出勤したてで、ちょっとけだるそうな足取りも素敵だった。

詩のモチーフとなった朝は、ショーウインドウの中に見えるいつもの席に彼の姿はなく、休みなのかなと思いながらウインドウ伝いに角を曲がり、ショールームの正面に向かってわたしは歩いていた。
すると、向こうからやってくる彼が見えたと同時に、ショールームの正面ドアから上司が出てきて――詩のシーンへとつながっていく。

 わたしがあなたを思っても
 あなたはわたしに気づかない

 遠くからあなたを見つめている
 年下の女の子がいることに
 あなたはきっと気づかない

わたしはその詩を、そんなフレーズで締めくくったと思う。大学4年生のその夏、まるで高校2年生みたいに、わたしは彼に恋をしていた。

「あなた」との夏の思い出は、じつはもう一つある。
アルバイト帰りの夕暮れどき。カナカナ蝉の鳴く中を、わたしはショーウインドウに沿って歩きながら、デスクに座って書類仕事をしているらしい彼を見つめていた。
そのとき、彼がわたしのほうに顔を向け、手招きをしたのだ。いきなりの彼の行動にわたしはぎょっとして、自分を指すと「わたし?」というふうに目を剥いて、無言の質問を彼に投げた。
彼は、うんうんとうなずいて、再度手招きをした。
そうしてわたしは、初めてショールームの中へと足を踏み入れたのだった。

「まだ学生ですから、車は買えないですよぉ」って、言ったのは覚えている。
「そうだよね」って彼は笑って、「でも、好きな車種はあるよね?」って。
「マーチかな?」って、わたしは教えた。

そしたらマーチのパンフレットを取ってきて、いろいろと説明をしてくれた。彼は名刺も、わたしにくれた。小さく顔写真がついていて、わたしはそれが何よりうれしくて、家に帰ると定期入れに入れたっけ。

大学を卒業して就職すると、わたしは午前7時過ぎの電車に乗るようになった。ディーラーは営業前で、彼を見ることは叶わなくなった。
帰宅するのは当然のように閉店後。真っ暗なショールームの前を通過するだけの日々に、さみしい気持ちばかりが募った。今ならマーチを買えるのに、営業担当になってもらえるのにって。

「あなた」のことを書いた詩は、あの一遍のみ。言葉を交わしたのは、あの一度きり。あのときのパンフレットも名刺も、きっとなくしてしまったのだろう……。

____________

「おばあちゃん、元気だった?」
中学生くらいの娘さんの声がして、わたしはそちらを振り向いた。
「おばあちゃん?」
わたしのことなのか、はっきりしない。
「やっぱり忘れてる。アオイだよ、孫のアオイ!」
「アオイ?」
単語をそのまま返すのが精いっぱい。
「そうだよ」
「どうだった? 覚えていたかい?」
アオイという娘のうしろから、背の高い白髪が豊かな男性が声をかけてきた。
「ううん、だめだった」
アオイが答える。
「はい、パンフレット」
背の高い白髪が豊かな男性が手渡してくれたパンフレットを見て、わたしは驚いた。
「なくしたと思っていたのに」
「マーチが好きなんだよね?」
「日産のマーチね」
「うん、日産のマーチだよ」
「わたし、あの人の名前が思い出せないの」
「そう……」
背の高い白髪が豊かな男性は、とても悲し気に見えた。
「ところで、あなたの名前を教えてもらえますか?」
「はい。岸本なみえって言います」
「ぼくは、岸本伸介ですよ」
「あら、わたしと同じ苗字!」
「おばあちゃん、相変わらず、おもしろい!」
アオイが笑った。岸本さんも笑っている。二人に誘われるように、わたしも笑っていた。

でもやっぱり、わたしはあの人の名前を思い出せない……。
マーチのパンフレットは見つかったのに。

名刺があれば、思い出すかしら?

この記事が参加している募集

夏の思い出

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?