若害
インターネットの発達によって、「老害」という言葉が異様に流行り始めた。
元々は老人の蔑称だった言葉だが、最近はOBの謙譲語としても使われるようになり、広義に「古い価値観を押し付ける人」という意味で捉えられている。
新たな価値観が積極的に発信されるようになると、その対極にいる人々の存在も明確になってしまう。
若者の主戦場であるインターネットで「老害」と呼ばれる人物が続出するのもそのせいだと思う。
しかし、「新しい」か「古い」かは本当にそのまま善悪の規準になるのだろうか。
先日、大学の教室を借りようとしたらハンコ集めのために5回キャンパスを移動させられた。比喩ではない。マジの、5。世界一無駄なスタンプラリーだ。
借りた教室の数は1である。
なのに、5。
え、5?
そう、5。
5て。
キャンパスを移動している時は「いや明治時代か!!!!」と思っていたが、よく考えたらこれは明治時代でも異常だ。
ネットがなくたって「教室予約を承認する」だけの作業に必要なハンコは1つだけのはず。大学のくせに組織の連携が取れてなさすぎる。
「古いから」ダメなのではなく「非効率だから」ダメなのである。
逆に、フレックスタイム制を導入する企業や定時退社を勧める企業は「新しい!!」「これが令和の働き方!」と持て囃される。
しかし、今までなかったことに対して「新しい!」とか「令和!」とか言うのはある意味何も言っていないのと同じだ。
りんごに向かって「赤い!」とか「果物!」とか言うようなものである。
フレックスの評価すべきところは「新しさ」ではなく、「労働によって生活が支配されない」点だ。
そしてそれは蟹工船の時代から善とされていたことである。
りんごに対したって、「瑞々しい!」とか「蜜が多い!」とか言わないと評価していることにならない。
つまり、物の善悪の規準として「新しさ」を用いるのは根本的には間違っている。
野球の練習で走り込みをするのはもう古い!
だから「脈なめ練習法」を提案します!
脈拍のドキドキと同じリズムで手首をペロペロしてください!新しいでしょ?見たことないでしょ?
と言われて受け入れられる野球選手はいないはずだ。
「古い価値観を押し付ける」と言うとまるで「古い価値観」が絶対的な悪であるような感じがするが、古くからある考えでも納得できるものはいくらでもある。だから今でもニーチェの言葉が売れているのだろう。
ならば老害の問題点は、「価値観を押し付けてくる」点であると言える。
確かに価値観の押しつけは良くない。
ただそれは、「新しさ」という見かけ倒しの武器で自分の価値観を押し付けてくる人にも同じことが言えるはずだ。
「その考えはもう古いですよ!」
「令和の新常識はこれなんですよ!」
「これこそが〇〇2.0です!!」
そんな美辞麗句を並べて、まるで自分の常識が世界の常識であるかのように語る人はもはや「若害(にゃくがい)」である。
新しさより先に正しさを教えてほしい。
それが今まで実現されてなかったのは単に間違ってるからじゃないのか。
元号が変わったせいで突然この国の全てがアップデートされた感覚になり、「これを理解できない自分は遅れてるんじゃないか…」と不安になることも多い。
ただ、だからって見たことないものを全て容認していたら本当に脈なめ練習法が導入されてしまう。
元号なんて国が勝手に決めた時代の名前に過ぎない。
人間社会はチンパンの時代からずーっと地続きになっている。
様々な価値観が変化している今だからこそ、若害に惑わされない審美眼を鍛えていかないといけない。
ちなみに、1つの教室予約に5ヶ所も校舎を巡らせるようなシステムは老害でも若害でもありません。
「害」です。
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