どの時代も若者は生きにくい

映画を見た。何も言えず友人と、ただ黙って歩いた。決まって映画を見たら感想を何時間でも話すのに、あの時はただひたすら黙っていた。言葉にできなかった。高校三年生の私は登場人物たちと自分を重ね、複雑な心境に苛まれていた。境遇も、性格も、考え方も何一つ同じ物はないのに、彼らと自分を重ねてしまった。複雑な時期、高校生。あれからもう2年が経とうとしている。2年も前に見た作品の感想を、今、ここで、文字にすることに何の意味もない。言わばただの振り返り、ただの自己満足。しかし、高校生のときに感じた「イキニクサ」を、大学生になり成人を控えた私が文字にすることが何かのきっかけになりそう、なればいいな、そんな気持ちで書いている。

あの日見た映画のタイトルは『リバーズ・エッジ』監督は行定勲、原作は岡崎京子。あらすじを語るのも勿体ないので、内容は省略させていただく。

見えないだけで問題はいつもそばにある

登場人物は高校生。何かしら複雑な思いを抱きながら毎日を過ごす少年少女。彼らが青春時代を過ごした時代は、私達が生まれるちょっと前。言わば、私達の親世代のお話なわけだ。しかし、彼らが抱える問題は、今の私達が直面している問題となんら変わりがない。例えばLGBT、例えばセックス依存症、例えば子供への関心の薄さ、そういった現代になって浮き彫りになり始めた問題たちだ。
同性に恋愛感情を抱くこと、セックスを遊びの一種と考え溺れていくこと、ファストフードやコンビニのご飯を一人で食べること、彼らはそうしたことが「普通ではない」ことを知っている。普通でないから誰にも言えない。そんな環境下にいる。しかし、それぞれ似たような少年少女が出会い、共感し、心の拠り所として過ごしていく。彼らが作った小さな世界は、彼らを守るかけがえのない居場所となっていくのだ。
現代でだって、取り上げられるようになったものの、それらの存在は奇異の目で注目される。それは「普通でないから」注目されるのであって、解決策が生み出されているのかと問われれば、答えはNOであろう。小さな一歩を踏み出しつつあり、YESに近づいて入るかもしれない。しかし、根本は今も昔も変わっていないのが現状ではないだろうか。目に見えているか、見えていないか、時代が変わり見えるようになっただけで、若者が抱える問題はいつだって私達のそばにあるのだ。

生と死の曖昧さ

孤独を抱えた少年少女、彼らはどんどん社会の闇に飲み込まれていく。彼らの闇は奥深い。彼らの孤独さがどんどん深くしていっているのだと思われる。
似た者同士、小さな世界で己を隠すように傷を舐めあう彼らの姿は、正直気持ち悪い。ある少年はLGBTを抱えるが、隠すために女の子と普通に交際し、欲を果たすためにおじさんに自らの体を売る。そんな少年は河岸の草っぱらに落ちている『死体』を見て癒やされている。それはLGBTを抱える少女と共通の秘密であった。いや、死体を見て癒やされているなんて気持ち悪い以外の言葉があるだろうか。しかし、彼らはそれほどまでに孤独さに溺れているのだ。彼は主人公にこの秘密を打ち明けたときにこんな事を言っている。
”何かこの死体をみるとほっとするんだ
自分が生きているのか死んでいるのかいつも分からないでいるけど
この死体をみると勇気が出るんだ”
いやいや、勇気が出るって何やねん。というのが最初の感想。しかし、このセリフ、奥深いと原作を読み返して感じた。生きているのか、死んでいるのかわからない彼が、唯一「生」を感じられる瞬間は「死」に触れるときだけなのかもしれない。生と死は相反するものである、しかし時にその2つは紙一重となる時もあるはずだ。身近な人の死は、自分たちが生きていることを気づかせ、命の儚さを目の当たりにさせる。生きることとは何だろう、息をしていること?心臓が動いていること?心臓が動いていれば、息をしていれば生きていることになるのか。誰にも愛されず、誰にも必要とされず、本当の自分のままでは生きられない、偽りの自分を作ってまでも生きる、それは生きていることになるのだろうか。それが生きていることになるのであれば、彼は「生きている」と分かるはず。しかし彼は生きているのか死んでいるのかわからないのである。それは、彼が彼らしく生きることができない世界にいるからなのではないだろうか。

イキニクサを感じること

さて、私が最初でイキニクサとあえて漢字にしたわけだが、ここでその意図をお話しよう。
いつの時代も、おじさんおばさん(あえてここではそう言わせてもらう)は若者に対して「これだから最近の若いのは」というセリフを吐き捨てる。若者はいつの時代も比べられて生きているのだ。そんなことをいうおじさんおばさんもかつては若者だった時代があるのだ。つまり、そんなことをいうおじさんおばさんも「これだから最近の若いのは」と言われてきたわけだ。そんなことをいうおじさんおばさんもそんなこと言われて嫌な思いをしてきたはずなのである。しかし、この言葉はいつの時代も繰り返されて使われるのである。
そもそも、なぜ若者は「これだから」と言われなければならないのだろう。時代は常に進み、進化している。その時代にあったスタイルというものが確立されるのであるが、それは30~40、はたまた50代のベテラン世代がコツコツと積み上げて完成したスタイルでもあるのだ。そこに新しい文化や考え方を持った若者がポンっと入ってくるとそのスタイルに合わないためはじき出されてしまうのだ。積み上げられたものと新しいものが比較され、新しいものは奇異の目で見られ適応されにくい。そんな環境のもとでは、若者は常に息のしにくさを感じながら日々生活するしかない。
生きにくさと息(し)にくさを感じて若者は新たな時代を作ろうと努力する。こうして、時代は流れ進化していっているのだ。つまり、生きにくい社会というのは息のしにくい社会であって、酸素不足な社会であるのではないだろうか。若者が酸欠で倒れていくのも無理がないのかもしれない。ときに、呼吸をしやすくするための逃げ道というのも必要になるのではないだろうか。

最後に

こんなことを書いていて、自分が今酸欠状態である。内心、ヒヤヒヤしながら書いている。臆病者だ。
この作品を見て、なんとも言えない感情に駆られたのはこのイキニクサを私自身感じていたからなのかもしれない。当時、受験生だった自分はいつも理想の自分を思い描いていた。教師になって、今の教育環境をもっと良くしたい!!!と熱く燃えていた。しかし、教育に特化したこの大学に入り、その心は少し揺らいでいる。子供と接することはもちろん楽しい。しかし、自分が本当にやりたいことが学校という環境下ではできないかもしれないという問題に直面したのである。大学では、何も考えず、ただ授業をうけ、ただレポートを出す。考えることが減ってしまった。なんとなく生活しているとき、先輩方からお話を聞く機会があり大きく将来に向けての不安が生まれてしまったのである。イキニクサを感じた瞬間であった。そんなとき、ふとあの映画を思い出したのだ。原作本はあの時買っていたが、あれからなんとなく開くことを躊躇って開いていなかった。今回、この文章を書くことで開いてみたが、あの時感じたイキニクサをふただび味わい酸欠になった。今、自分が何を書いているのかも酸素の薄い頭では分からなくなっている、読んでいるみなさんももしかしたら分からなくなっているかもしれない。

さて、酸欠状態になるために、あなたも開いてみませんか?そして、あなた自身がこの作品から受け取る「イキニクサ」を酸欠状態の頭で考えてみてみませんか。必ず、登場人物たちの抱えるイキニクサをあなた自身も抱えてることでしょう。

文責[28]

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