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翻訳家「上野千鶴子」から、ヘイター「千田有紀」が生まれる必然について=<一生涯ここにとじ込めてやる!>という呪い=

<一生涯ここにとじ込めてやる!>

上野千鶴子から千田有紀のようなヘイターが生まれる土壌は、このような言説に溢れているからでもある。 安保闘争でガリガリになった全共闘世代の脳みそ、つまり概念の上に概念を重ねた固定的な記号の上を生きてきたオッサンたちにとっては上野千鶴子の翻訳はわかりやすかったのだ。

天才的と仰ぎ見たくもなるのだろう。

でも、ここで考えたい。
敢えて反語だと言いたいのであるならば、この見出しはないだろう。
むしろ本心がこういわせているのではないだろうか?ということなのだろう。

弱い立場の者に全員がなってしまえば平等だという紋切型の人権論にすべる必然について、どう考えているのだろうか。

「一生涯、ここに閉じ込めてやる!」(井伏鱒二「山椒魚」)

自由を謳歌していた蛙を虐待することで、うっかり頭でっかちに思春期の重要な3年間を「引きこもり」で過ごした結果、体が成長するという決定的な事実を見落としてしまい、生涯幽閉生活を送る身の上になった、ちょと間抜けでおかしみのある、深刻ぶった感傷に浸っている姿までが元来愛すべき存在でもあった山椒魚。その限り転向世代の同時代を生きていた青年たちとそう大して変わらないではないか。しかし「どうにもならないことをどうにもならないままにしておく」結果、狂気を招いた。機能不全家族の毒親に閉じ込められている21世紀を生きる若者たちの姿とも重なって今日ただいまの読者には見えてきさえしないだろうか、自分を棚上げした呪いの言葉を浴びせる山椒魚の姿が、である。

もう少し冷静に見た時に、信田さよ子が登場してきた意義も意味も、単に福祉・カウンセリングの領域に彼女を置き続けさせようとしている上野千鶴子の行動そのものが、日本の民主主義と社会発展の敵であることを物語っている。

上野千鶴子と千田有紀こそ「ウィークネスフォビュア」(信田さよ子)である


「中二女子」ギャング期の文法そのまんま=子飼いを侍らせ、自分より弱者を虐げることであたかも自分が弱者の居場所を守り助けている錯覚に陥る論理=に見えてならない。

自分以外の存在を矮小化させて安住させるそれこそが男性中心社会のやり口=女性スペースを与える行為=なのだ。 ウィークネスフォビュアという民主主義最大の敵を言い当てている信田さよ子についての偉大さが広められることが少ない。上野の社会構造論ばかりに固執している限り、固定的なフェミニズム論に終始していく必然がある。 だから言うのだ。彼女は翻訳家であって社会学者ではないのだと。

一億貧困に陥って苦しんでいる人たちの傷に塩を塗る行為=傍観者の教養主義に存在意義はない=

旧Twitter(X)でも炎上したのは必然で、(彼女は「それを狙った」とも居直るだろうけれども)夫となった人の遺産もひきついでのタワマン暮らしの身の上が、年金暮らしやニートらの卑屈な感情に火をつけた。
「タワマン暮らしやめてから言え」
目糞・鼻くその争い、というか、「山椒魚と蛙の世界」がここでも繰り広げられているわけだ。
「お前はバカだ」「お前はバカだ」
「お前は頭がつかえて出ていけないだろう」
「お前だってそこから降りて来い」
こんな言説に意味があるわけもない。
悪党の呪いの言葉は喰われることより恐ろしい。先取された未来への恐れはそれはそれは一層無行動と幽閉を選び、孤軍奮闘しかできなくなる。
自分たちの幽閉は「誰かが与えてくれない」から不自由なんだろうか?
トランスジェンダーが蛙になっていないか?
オンナ山椒魚の呪いの言葉がどこまで現代の、とりわけジェンダースペクトラムの時代を生きようとしている人々の感情ぐるみに受け入れられるのだろうか?

アベノミクス批判や時代認識そのものについて上野千鶴子はブレてはいない。しかし、人間観がブレている。だからと言おうか、だから余計に読む人たちに傷つく人が累々と山積みされてしまう。ではないのか。

「平等に貧しくなろう」はここまで構造的に追い込まれた日本社会づくりに「民主的に」加担したのは安倍政権を支えた日本国民の罪として引き受けねばならない、ということだろう。


下記に引用しているXの反響から下にいけばいくほどダメな言説なのだが、
経済成長もしない中で消費税が賃金引上げに貢献したというような妄想に憑りつかれているが、消費税をなくして国内消費が循環し活性化する方がよほど人々の暮らしはよくなる。人々の食う寝る遊ぶで政権を潤す必要などまったくない。事業税を出さない見返りに裏金を集めた連中の組織犯罪・政府権力者の疑獄こそ問いただすべきだ。

千田有紀・滝本太郎・森奈津子らヘイターの翼に集まっている人達が、トランスジェンダーへの攻撃を繰り返しをすることが女性の居場所を作るという風に論理をすり替え、裏側で日本会議や日本保守党の運動に迎合していっている。性別適合手術を認めない、LGBTQは家族の同意がなければ認めない、親権がある以上子どもの性自認を許してはならない、性自認は(共産主義)イデオロギーであるから認めない、トランスジェンダリズムも(共産主義)イデオロギーであるから認めない、云々。ほとんど「生長の家」や統一協会の言いぐさへと滑っている。

トランスジェンダーへのヘイトやLGBTQのノンポリぶりも同じ根っこがある。新宿2丁目に代表され、ハッテン場を2丁目に長らく置かずに遠隔地においやってきた「クローゼット」の論理、すなわち「2丁目以外でバレたら困る」人たちの弱みにつけこんで足の引っ張り合いしかしてこなかった世代にとって、「アウティングで脅しをかけさえすればあとは炎上待ち」すればよい、というあの暴力団的なやり口=社会人と名乗って反社会的言説と行動をまかり通すあのやり口=もそのまま、男性中心社会の中で居場所を与えてもらった見返りに「食われノンケ」にさえ文句ひとつ言わずに奉仕しつづけて裏街道で咲くあだ花の美を競ってきた自分たちの、その限りタンスの中でライトを浴びて咲き誇る大麻草のように、自分たちの淫靡で匿われた世界に酔ってきた生きざま、そろそろ「同性婚」や「パートナーシップ」やまっとうな人と人の出会い方や愛情の育み方を求める人たちにとっては不要になってきているのではないだろうか。
いい加減昭和から脱却しなけりゃいけないんだよ、ということにクローゼットな世代の文法に首まで漬かって育ってきたわれわれ世代が気付かねばならないと思う。
平成だけで30年も経っている、アベノミクスで育った人たちがまるま平成だということだ。あえていえば40代以下の昭和はほとんどいないということだ。明け渡して自由と平等の中であるべき地平を考える時代に突入しているということを認めた時に、はじめて自分たち昭和のオカマたちの居場所だって「与えられているのではなく、そこに出来る」という事を学べるはずだ。あとは心がけ次第だということだ。

さいごに
もちろん、千田有紀のような存在が出てくることは上野千鶴子だけの責任ではない。だが学位を与えた責任はある。
レーニンにスターリンの誕生責任を負わせきることは無理があるし、ダーウィンがまさか優生思想・社会ダーウィニズムを生む原因が生まれるとは思わなかったかもしれない。キリストの弟子が皆殺しにされてその信仰と威厳だけを権力者が乗っ取る形で世界思想として軍事的に覇権を繰り返したということを知るのは神だけだろう。
学者なら対等平等に自分が学位を与えた千田の言説が本当に女性や弱者の明日の地平を作るのか、述べる責任もあるが、大勢のLGBTQに恨みを買っている理由はLGBTQの読解力が足りないか、あるいは上野千鶴子もまたヘイターであったということの証になるのか。
徹底的に検証と立証をしていくひつようがあろう。



<参考>
中日新聞・東京新聞掲載(2017.2.11)記事全文



 日本は今、転機だと思います。最大の要因は人口構造の変化です。安倍(晋三)さんは人口一億人規模の維持、希望出生率一・八の実現を言いますが、社会学的にみるとあらゆるエビデンス(証拠)がそれは不可能と告げています。
 人口を維持する方法は二つあります。一つは自然増で、もう一つは社会増。自然増はもう見込めません。泣いてもわめいても子どもは増えません。人口を維持するには社会増しかない、つまり移民の受け入れです。
 日本はこの先どうするのか。移民を入れて活力ある社会をつくる一方、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか、難民を含めて外国人に門戸を閉ざし、このままゆっくり衰退していくのか。どちらかを選ぶ分岐点に立たされています。
 移民政策について言うと、私は客観的に無理、主観的にはやめた方がいいと思っています。
客観的には、日本は労働開国にかじを切ろうとしたさなかに世界的な排外主義の波にぶつかってしまった。大量の移民の受け入れなど不可能です。
 主観的な観測としては、移民は日本にとってツケが大き過ぎる。トランプ米大統領は「アメリカ・ファースト」と言いましたが、日本は「ニッポン・オンリー」の国。単一民族神話が信じられてきた。日本人は多文化共生に耐えられないでしょう。
 だとしたら、日本は人口減少と衰退を引き受けるべきです。平和に衰退していく社会のモデルになればいい。一億人維持とか、国内総生産(GDP)六百兆円とかの妄想は捨てて、現実に向き合う。ただ、上り坂より下り坂は難しい。どう犠牲者を出さずに軟着陸するか。日本の場合、みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい。国民負担率を増やし、再分配機能を強化する。つまり社会民主主義的な方向です。ところが、日本には本当の社会民主政党がない。
 日本の希望はNPOなどの「協」セクターにあると思っています。NPOはさまざまな分野で問題解決の事業モデルをつくってきました。私は「制度を動かすのは人」が持論ですが、人材が育ってきています。
 「国のかたち」を問う憲法改正論議についても、私はあまり心配していない。国会前のデモを通じて立憲主義の理解が広がりました。日本の市民社会はそれだけの厚みを持ってきています。
 (聞き手・大森雅弥)
 <うえの・ちづこ> 1948年、富山県生まれ。認定NPO法人「ウィメンズ アクション ネットワーク」理事長。『ケアの社会学』『おひとりさまの老後』など著書多数。近著は『時局発言!』(WAVE出版)。


「国立大の授業料を年間150万円に」慶応トップの提案に反発も…「公平な競争」に必要なことって?(東京新聞 2024.4.24記事)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/323124


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