電車で赤子が泣き出して謝る母親を援護したら怖い目にあった話

電車の座席に座り半分寝ていると、ドア付近に立つ女子高生くらいの二人組が静かに口論を始めた。
すると、私の向かい側に座っていた赤子が泣き出した。

赤子の母が「すみません」と言いながら、申し訳なさそうに子をあやしていると、母子の近くに座っていたおじさんが険しい表情をして見ていたので、念の為その母子の援護に回ることにした。

「いえいえ、赤ちゃんですし」
「私も皆も昔は赤ちゃんでしたし、大丈夫です」

と、言おうとしたが緊張のあまり合体し

「私も赤ちゃんなので、大丈夫です」

などと、精神的に全く大丈夫ではなさそうな発言をしてしまった。
生後240ヶ月の元気な赤ちゃんが電車内で産声を上げた瞬間であった。
スッと険しい顔のおじさんが顔を背けたのが視界の端に入った。

言い直そうとしたが母子と目を合わせる事に気まずさを覚え、私は視線をずらした。その先に先程のオヤジがいた為

「赤ちゃんですよ?」

と、オヤジに語りかけているかのようになってしまった。
こちらとしては「だって赤ちゃんですよ、仕方ないですよねぇ」という意で言ったのだが、先ほどの発言のせいで己が赤ちゃんである事をオヤジにゴリ押すかのような物言いとなってしまった。
逃げ場のない空間で、己が赤ちゃんであると信じてやまない成人が目前に現れれば、僧侶でもない限り精神を乱される事だろう。
赤ちゃんという可愛い媒体を持ってしても隠しきれぬ不気味さが車両を包んだ。
どうか怖がらないでほしい。

私に意見の押し付けをされたオヤジは、身体を震わせながら先程よりも傾斜角を増して再び顔を逸らせた。
しばらく見つめたが、意地でも目を合わさぬ様子であった。
赤子は泣き、母親は固まり、オヤジは必死で私という存在を視界から消そうとしている。
人混みの中で感じる孤独とはこの事かといたく思い知った。

私の羞恥心が限界を迎えようとしている。
このままでは、生後240ヶ月の私の嗚咽が電車内に響き渡り、この不気味な展開に更なる拍車を掛ける事だろう。
席を移動しようと立ち上がると、赤子と目があった。
「立つ鳥跡を濁さず」と思い、最後の力を振り絞り笑顔で赤子に両手を振ろうとした。

その時、電車が動いた。

急な揺れに母子に向けた私の笑顔は大きく横へぶれた。
顔の方向だけが固定されたまま、横歩きで忙しないステップを刻み続け、私の体は車両の端へと流されていった。
歩行中のミッフィーちゃんが足元に威嚇射撃を乱射されればこの様な動きを見せる事だろう。
しかも、顔はミッフィーのような無の表情ではなく謎に笑顔である。

私は足を止める事ができず、そのまま側で口論をしていた女子高生達の前を通過した。
先程まで互いに「あんた頭おかしいんじゃないの」などと言い合っていたが、今はそれを遥かに上回る頭のおかしそうな奴が奇怪な動きで視界を横切っている。
夜道で出会していたらなら迷わず通報されていた事だろう。
その狂気に満ちた佇まいに、一人は飲み物が気管に入り奇声を発して咳き込み、もう一人はそれを見て大変狼狽えていた。
一部始終をみていた見知らぬオヤジと赤子の母の抑え込んでいた感情はついに決壊した。

もし、公共の場で赤子の声に心を乱された時は、思い出してほしい。
赤子の声が例え耳をつんざこうとも、自分を赤子だと思い込みミッフィー走りで車両を駆け巡る不審者よりは、遥かに安心に溢れる事を。

【追記】
私は謝罪した。
誰に言うでもなく、電車のドアのスレスレに立ち、皆に背を向けたまま謝罪した。
目を合わせる勇気はとうに消えていた。
背後から聞こえてくる嗚咽を聞く限り、もう女子高生とオヤジはダメになっている。
その際、オヤジはどことなく乙女チックな声で震えていた。
おそらく赤子が泣いて文句をつけるタイプのオヤジではなかったのだろう。
私が全て壊してしまった。

電車を降りる際、赤子の母が声を震わせながら

「有難うね……ありが……んふっ」

と、言ったのが聞こえた。
お陰で多少救われた思いがした。

最後に
赤子の声に腹の内で心乱される事自体は悪いことではない。
人間どうしようもない時もあるのだ。
しかし、大人でも子供でも、生活している限り知らずのうちに誰かに必ず世話をかけているものだ。
道を一本歩くでも、気付かぬうちに誰かの進行を阻害してしまったりするくらいである。

疲れていると自分だけが我慢していると思いがちになってしまうが、自分もどこかで誰かに我慢をさせているのだろう。

赤子より行動に自由が効く分、我々の方で美味しいものを食べたり、ちょっと良い酒でも飲んでリフレッシュしようではないか。

ストレスの中、日々頑張る人達が互いに糾弾し合う事が少しでも減ることを願う。


【参考資料】ミッフィー走り。開始5秒で突然画面を凄い速さで横切っていくブタのような動き。


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