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vol.14 みんなでつくったブランドの背骨【PELP! 】

経営者とブランディングデザイナー西澤明洋が対談し、ブランドの成長ストーリーを振り返りお届けするシリーズ「BRAND STORY」。

執筆・編集 加藤孝司
撮影 トヤマタクロウ

「捨てず、燃やさず、めぐる紙」をコンセプトにしたPELP!(ペルプ!)。1957年の会社設立以来、古紙再生に特化した製紙業を展開してきた大阪の製紙会社である山陽製紙が取り組む再生紙によるアップサイクルプロジェクトだ。設立50周年を迎えた2007年には、循環型社会と持続可能なものづくりに向けて経営理念を刷新した。そんな中エイトブランディングデザインとの出会いを契機に2017年にリブランディングに着手。エイトブランディングデザインはPELP!のブランドコンセプト、戦略、ネーミング開発、オリジナルプロダクト、ロゴ、WEB、パンフレットなどトータルでデザインを担当した。60年以上の歴史をもつ古紙再生技術を背景に、オフィスコピー用紙のアップサイクルによる自社サービス「PELP!」はどのように生まれたのか。2018年のリブランディングから5年が経った今、クライアントとの言葉で振り返る。

皆で豊かになる循環型社会を見据え理念を刷新

西澤:リブランディングの発表から5年が経ち、ビフォーアフターというか、結果もそろそろ出てきたころかと思います。当初からエシカルということをおっしゃっていましたが、その頃は現在のようにSDG’s旋風が巻き起こるとは想像もしていませんでした。そのような時代の変化を受けて、PELP!が世の中で期待されていることと実際の役割などをお話しできればと思っています。

原田:よろしくお願いします。

ーー御社のウェブサイトには社史が漫画で綴られていて楽しく拝見しました。まずは、あらためて御社の歴史を教えてください。

原田:漫画を読んでいただきありがとうございます。私たちの会社は昭和3年、祖父の原田楽一が広島県三次市で「原田大誠堂」という紙の卸業として創業しました。昭和5年には「山陽紙業」と社名をあらためて広島市内に、数年後には海外進出も果たしました。着実に販路を開拓していくなか第二次世界大戦が始まりました。昭和20年8月6日に広島に原爆が投下されましたが、爆心地から数キロしか離れていなかった本社はがれきの山になりました。その時祖父はがれきの山を前に新たな道を歩むと決心し、廃墟から立ち上がり、今の山陽製紙があります。ちょうどその過程で、紙の販売から製造を目指していたところ、お付き合いのあった銀行から大阪に廃業した製紙会社があると連絡をいただきました。それが現在の大阪の本社で昭和26年のことになります。

山陽製紙株式会社 代表取締役 原田六次郎氏<写真左>
1950年、広島市生まれ。広島大学工学部卒業。1974年山陽製紙株式会社入社、1984年2代目社長原田博急逝により社長就任、現在に至る。

山陽製紙株式会社 専務取締役 原田千秋氏<写真右>
1950年、広島県呉市生まれ。広島大学教育学部卒業。結婚後大阪にて中学校勤務、義父の急逝により退職、1992年山陽製紙株式会社入社。

ーーなぜ大阪にと思っていたのですが、そのような歴史があったのですね。
原田:はい。それで広島の本社とは別に、大変な苦労を重ねながら、現在の地に製造業としての体制を整えてまいりました。ここに来た当時私はまだ3歳でしたが、会社は今年で66期を迎えました。

ーー製造業としては創業時から再生紙に特化したものづくりをされてきたそうですが、これまでどのような紙を作ってこられたのでしょうか?
原田:古紙を原料としてクレープ紙と呼ばれるシワのある特殊な紙を作ってきました。現在では緩衝材や梱包材として使われていますが、当時は戦後復興の建設ラッシュの最中で、クレープ紙がセメント袋として大変は需要があったそうです。また、このような袋物の他、オリジナルで開発した糸入りクレープ紙も工業用包装紙として広く使われました。現在も包装用と袋物のクレープ紙の二つを手がけています。
ですが、山陽製紙としての50周年を迎えた2007年に真剣に思ったのは、この先の50年を考えた時にこのままでは未来はないということでした。

ーーそれはなぜですか?

原田:お得意様や一緒に働く仲間に支えられ創業以来誠心誠意ものづくりを続けてきましたが、様々な新素材が生まれ、製紙業界全体が右肩下がりという現実に直面していたからです。
50周年を機に、社会貢献ができる会社にという思いをあらたに、企業の永続性を考えたときにつくった理念が「紙創りを通してお客様と喜びを共有し、環境に配慮した循環型社会に貢献する」というものでした。
製紙業というのは大量の水を使用します。弊社のような小さな工場でも、毎日2,000トンもの膨大な水、それに電気、ガスを使う環境負荷の大きな産業です。ものづくりの原点に立ち返る壮大な理念を打ち立てた以上、環境に配慮した製紙会社にならなければいかんという思いでやってきました。

ーー西澤さんは製紙業に携わる企業のリブランディングは初めてでしたが、製紙業についてはどのような印象をお持ちでしたか?

西澤:デザイン会社ですので、紙に関しては日々お世話になっています。ウチを見つけてくださったきっかけは何でしたか?

原田:それはもう専務の熱い思いに尽きます。

ーーと言いますと?

原田千秋専務:弊社はメーカーです。紙を作り、代理店に卸すことが仕事で、一般向けの商品は作ったことがほぼありませんでした。
先ほど社長からも話がありましたが、マーケットが衰退するなか新しい理念を掲げました。私としてもなんとかしないといけないと思い、まず始めたのがマーケティングの勉強でした。その時、今でも購読していますが、「日経デザイン」で西澤さんの記事に出合いました。お話がとても面白く興味が湧き、西澤さんの本を買って読み始めセミナーにも参加しました。

西澤:そうでしたか。セミナーとは、東京で開催した日経デザインの連続セミナーでしたね。

原田専務:はい。

西澤:まず日経デザインだったんですね。でも書店では買えない雑誌ですし、定期購読されたというところに本気度を感じます。

原田専務:はい。デザインが必要だと考えた時に、デザインとマーケティングの本は手当たり次第に読みました。

原田:専務はその頃、東京にたびたび出かけセミナーに参加していました。それが西澤さんのセミナーだったんです。

西澤:ありがとうございます。嬉しいですね。

新しい取り組みにはデザインが必要だった

ーー会社をどうにかしたいという思いからマーケティングを勉強されて、その過程でブランディングデザインに興味を持たれた感じですか?

原田専務:そうです。社長や社員の皆のためにも私なりにできることはないかと必死の思いでした。中でも弊社が取り組んでいた紙のアップサイクル事業であるPELP!の前進「カミデコ」については特に思い入れがありました。

ーーそれはなぜですか?

原田専務:「カミデコ」(現在のPELP!)は「紙でエコをする」をテーマに、紙の循環に特化した事業でした。それまでも自分たちの製品をB to Cにしてお届けするために、デザイナーさんとのご縁もいただいていたのですが、カミデコに関してはそれでは難しくて……。

ーー単にデザインの領域の問題ではなかったということですか?

原田専務:そうです。

ーーちなみに当時はブランディングについてどの程度ご存じだったのですか?

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この続きは、エイトブランディングデザインWEBサイトで全文無料公開中。『PELP![ 前編 ] みんなでつくったブランドの背骨』へ

執筆・編集

加藤孝司  Takashi Kato
デザインジャーナリスト/ フォトグラファー
1965年東京生まれ。デザイン、ライフスタイル、アートなどを横断的に探求、執筆。2005年よりはじめたweblog『FORM_story of design』では、デザイン、建築、映画や哲学など、独自の視点から幅広く論考。休日は愛猫ジャスパー(ブリティッシュショートヘアの男の子)とともにすごすことを楽しみにしている。http://form-design.jugem.jp/

撮影

トヤマタクロウ1988年生まれ。写真集や個展での作品発表を中心に、クライアントワークにおいても幅広く活動。http://takurohtoyama.tumblr.com/


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