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その日は雪が降っていた。

6話


アンジュと一緒に帰った日からあっという間に2週間が過ぎた。
夏休みに入り、あたしは所属している陸上部での部活動に勤しんでいた。
ただし部活動と言っても、ド田舎の弱小部でとっくに大会からは引退していたので、ほぼ惰性に近いルーティンをやるのみだ。
同じ陸上部である早川はもはや何をしに来ているのかと実際に顧問に小言を食らうほど、のんべんだらりとしている。
正午近くになり、部活時間も終了したのであたしはラインカーを片手にのそのそとハードルを片付ける早川に声をかけた。
「‥‥‥あんた、本当に何しに来てんの」
「あー!瀬那まで!瀬那まで顧問みたいなこと言わないでよ!!!」
確か早川は志望校の雲行きが少し怪しかったはず。
言うなれば現実逃避なのだろうが、現実逃避に来た場所でまた現実逃避をしているのはいかなものか。
先程まで様子見に来ていた顧問にみっちりお小言を食らっていたせいか、あたしの一言で堰を切ったようにブツブツと不平不満を呟く早川にあたしはため息を吐いた。
「滑り止め私立だっけ?」
「そうだよ〜、でも親に私立はやめてくれって言われてて、でも本当は滑り止めの方に行きたいんだよね」
制服可愛いんだよ〜、とほぼゾンビのように項垂れながら早川はぼやく。
「そんな将来とか就職とか言われてもまだあたし達15なのにさあ、わかんないよそんなの〜」
「まあ、それは解る」
「瀬那は鳳城行くんでしょ?推薦?」
ぼやくだけぼやいて、さっさと切り替えた早川があたしに話題を振って、首を傾げる。
体育倉庫の鍵を開けながら、あたしは頷いた。
「一応ね。出席日数は足りてるし、出すだけ出そうって話にはなった」
扉を開けると、かび臭いこもった匂いが鼻をつく。
むわんとした空気も相まって、不快極まりない。
口元を首にかけたタオルで覆いながら、ラインカーをしまって、早川が持ってきた(引きずってきた)ハードルを受け取る。
「じゃあ小論文と面接いるね。もう二学期から練習始まるよね」
「まあもう受験までは半年切ってるしね」
「ああもうそれ言わないで最悪忘れたい」
「いや忘れたら余計無理でしょ‥‥‥」
早川のあまりの悲愴っぷりにあたしは小さく吹き出す。
そんなあたしの態度に彼女の頬は風船のように膨れ上がり、そのあまりに子供っぽい仕草にあたしは耐えきれず声を上げて笑った。
「はーん!何よ何よ! いいよね瀬那は頭いいもん!」
「いやごめんって」
くつくつと喉の奥で笑いながら、早川の頬にかかった後れ毛を払ってやる。
早川は一瞬固まり、なんとも言えない妙な顔をしたあと、未だふてくされた顔で深くため息をついた。
「天は二物を与えずってぜぇったいに嘘だわ」
「何の話を始めた? ほらいくよ、さっさと帰ろ」
鍵を閉めて、職員室に向かって歩き出す。体操服も
汗で絞れるほど湿っていて不快でたまらない。
帰ったら何をしようかとぼんやり考えていると、ふと早川がそういえばと話を切り出した。
「今日さ!神社で夏祭りあるよね?行こうよ〜」
浴衣着てさー、ちょっとかっこいい男の子とかいないかなー。
ぐふふ、となんとも邪な笑い方をしながら、早川は指先で体育倉庫室の鍵をくるくると回して手遊びしている。
浴衣、と聞いて何故かあたしの脳裏にパッとふわふわの栗色の髪を結い上げた浴衣姿のアンジュが浮かんできて、慌てて首を横に振って掻き消した。
一緒に帰った日以降、終業式の日まで毎日何故か一緒に帰ったけれど、夏休みに入ってからは何の音沙汰もない。
メッセージアプリのアカウントも交換していないし、アンジュの家の電話番号も知らないのだから当然だ。
正直、もう来る必要のない部活に来ているのも、悶々とした感情を発散したい一心でもあった。
はっきり言えば、早川と同じように現実逃避しているとも言える。
アンジュは終業式の日まで毎日、あたしを見つければ必ず「おはよう、瀬那ちゃん。愛してるわ」と微笑んだ。
そのくせ、夏休みに入ってからはひとつも音沙汰ないとはどういうことなのだ。
かといって、あたしから連絡するのは絶対に嫌だ。
なんというか、負けた気がするというか、絆されているような気がするというか、とにかく嫌だった。
「‥‥‥い、おーい。あっ、吉良さん」
「えっ」
はっと気がつくと、早川がジト目であたしを見ながら呆れたように溜息をつく。
『‥‥‥‥‥‥』
あたしと早川で、変な沈黙が流れた。
相変わらず早川はジト目である。もはや蛇に睨まれた蛙状態である。頼む、何も言うな。
あたしの願い虚しく、口火を切ったのは早川だった。
「‥‥そんなに会いたきゃ連絡すればいいのに」
「早川。何の話か、あたしは解らん」
白々しくしらを切る。内心、冷や汗はダラダラである。女の子しか好きになれないことは、誰にも言ったことはない。
もしここでバレたら、あたしはきっと生きていけないと薄々感じていた。
現にアンジュはあの爆弾発言以降、いじめとは言えなくとも、距離は置かれているし、ひどい奴は指差して笑ったりしている。
あの陰鬱で、いかにもなクスクス笑いの対象になる勇気なんて、あたしにはなかった。
早川はほんの少しだけ困った顔になり、それからまた深い溜息をつく。
早川は良い奴だ。あたしが見ていないところはともかく、アンジュの奇行を笑ったり、気持ち悪がったりはしない。
だからといって、それとこれは別だった。
「吉良さん可愛いからさー、お祭り誘ったら来ないかな?って話してたんだけど、聞いてた?」
早川の、優しい気遣いを察して、少し泣きたくなる。
好きか嫌いかで言われると、まだよく分からない。
けれど、あたしの名前をなんとも幸せそうに呼ぶあの子に会いたい気持ちは確かにあるのだ。
「ごめん聞いてません。あと連絡先も知らないです」
「それはあたしが知ってるので大丈夫だぞ、この顔だけ女」
「すごいとんでもない暴言」
あたしの非難も何処吹く風で、早川がはん、と鼻を鳴らす。
この3年間、当たり障りなく、固定の友人は作らずに過ごしてきたが、彼女とはもっと早く仲良くなれば、もう少し楽しい学校生活だったかもしれないと何となく思った。
「失礼します」
職員室を開けると、ひんやりとした風が湿った肌を撫でた。
あんまり心地よくて、早川と二人で『あ〜‥‥』と深い溜息が揃う。
「本当に大人ってずるい」
「教室にもつけてよ。更衣室とか」
口々に文句を言いながら、鍵置き場の壁のフックに
鍵をひっかけて踵を返しかけた時だった。
「萩原、いたのか」
野太く、低い声にどこか妙な気持ち悪さを感じた。
奥の資料室から現れたのは笹部で、やたらとにこやかだった。
「あたしもいるけど〜!」
あたしの『後ろにいた』早川がおちゃらけてはいはーいと騒ぐ。
あたしより少し背の高い彼女の影からは笹部の顔は見えにくい。
つまり、笹部の位置からもあたしは見えにくいはずだし、まず先に早川に気づくはずだった。
早川の忠告が頭をよぎる。あたしに似た人形を愛でているという大人は、はたして安全なのだろうか。
「見えてるよ。萩原の声が聞こえたからな」
笹部がうざったそうに笑いながら、早川を宥める声がする。
妙な違和感が爪先からぞわぞわと背中へ這いずっていくような気がして、顔をあげられない。
「外は暑いだろう? ほら、これやるよ」
笹部は備え付けてある冷蔵庫から2本、スポーツドリンクを差し出してくれた。
早川がさっさとそれを受け取って、あたしの腕を引っ張る。
「わーありがとう先生! じゃ、帰りマース!」
失礼しました!とそそくさと職員室を後にして、無言のまま、部室へと足早に向かう。
部室のドアをバタンと閉めるなり、あたしと早川は顔を見合せて、アイコンタクトをする。
「あたし、そんな声大きかった?」
「ていうか‥‥‥瀬那ってあたしより小さいよね?」
『‥‥‥‥‥』
同じことを考えていたようで、早川の表情は心底気持ち悪いと言葉がなくともありありと物語っていた。
早川が抱えたままだったスポーツドリンクに視線を落とす。
よくある市販のスポーツドリンクなのに、なんだか不気味なものに見えて、正直受け取りたくない。
「あのさ、それ‥‥」
「いや解るよ、ていうか飲まない方がいいよ」
捨てよう、という前に早川がキッパリとした口調で言い切った。
悪寒が消えない。身震いしながら、2人並んでのそのそと着替え始める。
ぞわぞわと這い回る嫌悪感をやり過ごしながら、シャツのボタンを閉めていると、あたしの背後で着替えていた早川があっと嬉しそうな声を上げた。
「吉良さんから返事来たよー、行くってさ!」
にこにことあたしにスマホの画面を見せてくる。
釣られてみれば、メッセージアプリの画面には確かに「行きたい」と返答があった。
ぽこん、と通知音がして、またメッセージが来る。
『瀬那ちゃんに会えるの嬉しいわ。何時から?』
その文面を見て、いっぺんに嫌悪感が吹き飛んだ。
あっという間に着替えていた早川はにやにやしながら、あたしの肩をつんつんとつつく。
「なあに嬉しそうな顔してんのよ!」
「だまらっしゃい。ほらさっさと行くよ」
僅かに赤らんだ頬は、薄暗い部室のおかげでバレなかった。
「楽しみだなー!瀬那は浴衣ある?」
「ないよ。似合わないし」
「えっ似合うでしょ、またつまんない意地張って!」
お喋りをしながら、部室をあとにする。
スポーツドリンクは家で捨てようと鞄に無造作に放り込んだ。
自転車置き場に向かいながら、ふと何かの視線を感じてキョロキョロと見回してみる。
しかし人影は見つからず、あたしは首を傾げた。
「何してんの、早く帰ろー」
「今行く!」
そわそわと胸が浮き足立つのを感じる。
あの美しい女の子に会ったら、どんな言葉をかけようか。



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