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その日は雪が降っていた。

7話


アンジュの家は今どき珍しい純和風の古い家だった。
言い出しっぺの早川は浴衣がなかなか着れずに遅れてくるとのことで、あたしはショートパンツにTシャツといった出で立ちでアンジュの家の前に突っ立っていた。
恐る恐る呼び鈴を押す。ビーッというけたたましい音の後に人の気配がして、からから‥‥と玄関の引き戸が開き、先日見かけたお祖父さんがぬっと顔を出した。
「こ‥‥こんにちは、あの、」
「話は聞いてる。上がりなさい」
有無を言わせぬバリトンが頭上から降ってきて、あたしはまごまごしたまま、小さな声で「お邪魔します」と囁いた。
石畳の玄関には花が生けてあり、けれど少し薄暗く床は踏む度にキシッ‥‥と小さく軋む音がした。
物珍しさでついキョロキョロしてしまう。
何故かやたらと花のモチーフが多く感じる。特に百合が多い。
好きなのだろうかと首を傾げていると、お祖父さんが立ち止まり、襖越しにアンジュを呼んだ。
「アン、友達が来たぞ」
「はーい」
アンジュの返事を待ってから、彼はあたしを肩越しに振り返り、小さく会釈する。
そのまま立ち去っていく後ろ姿を見送りながら、あたしはぼんやりとあの堅物そうなお祖父さんがアンジュの背中にどうして刺青なんか彫ったのか、ふと考える。
罪滅ぼしなの、と囁いたアンジュの寂しそうな表情がふと過ぎって消えていった。
「瀬那ちゃん、入って」
襖越しにアンジュに呼ばれて、あたしはそっぽを向いたまま襖に手をかけて開ける。
スーッと音もなく襖が開いて、ふっと顔を上げたらふわふわの笑顔があたしの視界いっぱいに拡がった。うっかり、見とれた。
栗色の巻き毛が、音もなく肩から落ちる。
少し襟元を抜いた、たおやかな首筋に一筋汗がすっと滑っていった。
「あら、瀬那ちゃん浴衣じゃないのねえ」
深い藍色に金魚模様の浴衣を纏って、長い巻き毛を結い上げたアンジュがあたしを見て微笑む。
それはどこか大人びた響きを持っていて、何故だかあたしは胸がキュッとなる。
「えと‥‥‥そう、あたし似合わないし」
「そんなことないわ」
あたしの自虐を食い気味に否定してアンジュはあたしの俯きかけた頬を両手で慈しむように包み込む。
否応なくアンジュの薄青色と目が合って、その眼差しがひどく優しい色をしていることにあたしは気がついてしまう。
「あなた、とっても綺麗なのよ。あたしに任せて、ね?」
ほらきて!と半ば強引にあたしの腕を引っ張って、部屋の中に引き込む。
さっきは全く気が付かなかったが、畳の上はほぼ服と浴衣で埋め尽くされていた。
「部屋汚なっ」
「あっやだ、いつもは違うのよ!」
少し照れくさそうに笑いながら、畳に広がっていた深い緑の浴衣を手に取る。
「ちょうど良かった。この色、とても瀬那ちゃんに似合うわ」
そう言ってにっこり笑うと、いきなりあたしのTシャツをポイッと脱がせて肌着一枚にさせ、浴衣を羽織らせる。
突然の暴挙に驚き過ぎて硬直している間に、アンジュはさっさとあたしに浴衣を着つけてしまった。
「瀬那ちゃん、細身だから結構キツめに締めたけど、大丈夫そう?」
「え、あ、うん‥‥‥待ってあたし今何が何だかなんだけど‥‥」
「大丈夫!かわいいわ」
アンジュはふふっと悪戯っぽく笑って、あたしの頬にかかる髪をすっとかきあげる。
そのまま古い鏡台の前に座らされ、今度は髪をいじり始めた。
そのなんでもない仕草でまた胸がきゅうっと痛む。
それを気のせいだと自分を誤魔化して、あたしはふるふると首を横に振った。
「おばあさんがね、着道楽だったの。あたし、ここに身一つで来たものだから、お洋服はみんなおばあさんのおさがりなの」
そう言われて、ふっと足元に散らばる服達に目線をめぐらせる。
そう言われてみると確かにそれらは今の流行りというよりは、レトロチックなものが多かった。
「ね、素敵でしょう?」
あたしの短い髪を器用に編み込みながらアンジュが微笑む。
どうしてこの子はいつも、寂しそうに笑うんだろうか。
「身一つってなんで?」
「内緒よ。内緒が多いほうが瀬那ちゃん、あたしのことばっかり考えてくれるでしょう?」
またのらりくらりと答えをかわされる。
文句代わりの溜息をひとつついたと同時にアンジュの繊細な指先があたしの髪を綺麗な金魚の髪留めでパチリと留めた。
「はいできた。早川さん待ってるわ、行きましょ」
自分の長い巻き毛をあっという間に結い上げて、アンジュは綺麗に笑って見せた。


「あっごめーん! 遅くなっ‥‥てえーー!! 瀬那どうしたのすごい似合うよ!」
待ち合わせた神社の鳥居の前で心もとなさそうに立っていた早川はあたしを見るなり、やたらとはしゃいだ声を上げた。
その反応がいたたまれなくて、しかしまごつくのもキャラでは無いので、平静を取り繕って真顔になる。
「遅くなってごめん、大丈夫だった?」
そう聞き返すと、彼女はなんとも言えない顔でアンジュを見る。
アンジュはアンジュで肩を竦めて、ふふっと小さく笑うのみである。
「‥‥せっかく可愛い格好しても、中身王子だもんね、瀬那」
「えっなにそれやめてくんない? 気持ち悪いんだけど」
さすがに王子扱いはごめんこうむりたい。
首をふるふると横に振って拒否すると、早川はなおも呆れ返った表情で溜め息をくれた。
「時すでに遅いのよ。あんたヅカでも目指したらいいんじゃね?」
「絶対勘弁して、本当に」
確かにマイノリティ だと自覚はあるが、他人から変にカテゴライズされるのは嫌だ。
あたしと早川のやりとりを可笑しそうに聞いていたアンジュが不意にあっと声を上げた。
「ねえ! わたし、あれが欲しいわ」
アンジュが指差す先には露店のフルーツ飴がランタンのオレンジ色の灯りを弾いてキラキラと輝いていた。
「いいよ、見に行こっか」
ほら瀬那も! と早川から手を差し伸べられる。
その手を取ることを躊躇した。女だけれども、女の子が好きなあたしはいつも一線を必ず引いてきた。
着替えは見ないし、見せない。必要以上にそばに寄らない。触らない。
それくらいしか、対処法なんて思いつかなかったから。
固まるあたしを不思議そうに見つめて、早川はじれったそうにあたしの握りこぶしを掴んだ。
「もー! 何ぼさっとしてんの? 売り切れちゃうよ!」
「うぁっ! ちょ、待って行くからっ」
ぐいっと力強く引っ張られて、もつれる足を必死に動かす。
繋がった手は生温かく、じんわりと暑さのせいか湿っている。
アンジュにも手を繋がれることはあったけれど、やっぱり慣れない。
騙しているような気持ちでいたたまれなくなる。
けれど楽しそうに笑っている二人を見ていると、どうしてか、ほっと息がつけるような気がした。
「あたしいちご飴にしよ! 吉良さんは?」
きゃあきゃあはしゃぐ早川につられたのか、アンジュもいつもより少しテンションが高い気がした。
「あたし‥‥そうね、このちっちゃいの」
指差したのは小さなりんご飴で、店主に金額を払うとまるで宝物かのようにそっとそれを持ち上げる。
フィルムを破って早速頬張る早川を後目に、アンジュは幸せそうに微笑んだ。
その美しい笑顔に、またうっかり見とれる。
この子は本当にあたしのことが好きなんだろうか。
あたしは、この子を信じても大丈夫なんだろうか。
ゆらゆらと振り子のように気持ちが揺れている気がする。
この子といたら、何かが変わるのかもしれない。
けれど、その¨何か¨が恐ろしく感じた。
アンジュの眼差しがあたしを見つけて、また笑う。
そのたびに胸がきゅっと痛むのは一体なんなんだろうか。
「瀬那ちゃん、何にする?」
「あ‥あーあたしはいいや、他の見たい」
「あたし焼きそば!あーリング焼きもいいな、お小遣い前借りしてくればよかったー!」
そう、とアンジュが微笑み、早川はお財布の中身を覗き込みながら、わあわあ言っている。
その背後でお囃子と、太鼓の音。
なんだかすごくどきどきした。
夜になっても暑いけれど、それだけじゃない気がした。頬が、熱い。
「ねえ、瀬那ちゃん」
ふと名前を呼ばれる。気づけば、早川は何か買いに行ったらしく、姿は無い。
アンジュの鈴を鳴らしたような細い声が、どうしてかよく通る。
「あたし、やっぱり瀬那ちゃんが好きよ」
「‥‥‥何言ってんの、馬鹿」
この気持ちに、まだ名前をつけたく、ない。





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