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【4711】午前2時の円周率、午前5時のモーニングキス         後編

この作品は『シトラスの暗号』から始まる4711シリーズの続編です。よろしければ1作目からどうぞ。

「あ、水木」
 トイレに行こうと教室を出たら、織田先生に呼び止められた。
「はい?」
「実験室に落とし物届いてたんだ。持ってくるの忘れたからあとで来てくれる? 掃除のあとでいいよ」
「実験室に?」
「そ」

 実験室はドアが開け放されていた。
 白い長テーブルとスチールの椅子。鋭角的に光るステンレスの流し。
 冬の実験室はことさら寒々しく見える。
 中に入ると、織田先生が窓際で校庭を眺めていた。
 サッカー部と野球部が練習している。
 ゴールポストの前に、黄色いグローブを着けた元くんが見えた。
「先生」
「おう。嶋崎さんがついて来るかと思ったよ」
「佐智子は部活だから。落とし物って?」
「嘘です」
「え?」
「だから嶋崎さんが一緒だったらどうしようかと思ったんだ」
 先生は白衣のポケットから小さな包みを出した。
「明後日、誕生日でしょ。18歳おめでとう」
「どうして知ってるの?」
 そんな話、したことないはず。
「遠山先生が情報リークしてきた」
 包みを開けると、くまのぬいぐるみが付いたキーホルダーだった。
「くまちゃん! しかもシュタイフ!?」
「やっぱり有名?」
「有名だよ! 高かったでしょ!?」
「あー、まあちょっとびっくりしたけど。でもネットで調べたら、テディベアって言ったらシュタイフなんでしょ?」
「やだどうしよう、うれしすぎて泣きそう」
「泣くことないだろ」
「もったいなくて使えないー」
「いや使って」
「ありがとう。なんかものすごく大事なものに付ける。まだ何に付けるかわかんないけど」
「堂本くんに付けないでね」
「は?」
「いや、君の大事なものって」
「何それ」
「自虐ネタです」
「意味わかんない。ねえ、こんなすごいものもらっちゃっても、お返しできないよ」
「そんなの期待してると思う?」
「じゃ、お礼にクッキー焼いてくるわ!」
「やめてー、歯折れるから」
「失礼ねー」

 わたしが元くんと付き合い出しても、織田先生は変わらない。
 優しいし、電話の相手もしてくれるし、こんな風にわたしのことを気にしてくれている。
 だから諦めきれない。
 いつか、もしかしたらなんて考えてしまう。
 どうして? なんて訊くのは、どこかで期待しているのを見透かされそうだ。
 元くんと付き合ってるのに、こんなこと考えるのはずるいのかな。
 わたしにとって元くんはリアル世界だけど、織田先生の恋人になるなんていうのは、白馬に乗った王子様が迎えに来るレベルのファンタジーだ。
 ドラゴンボールを全部集めてクリリンを生き返らせるとか、背中に翼が生えて空を自由に飛ぶとか、そんなレベルの夢なら持っていてもいいでしょう。
 女の子はいくつになっても、シンデレラや白雪姫に憧れてるんだから。
 ディズニーの世界以外でおとぎ話が実現する確率は、かなり低いと思うけど。


「誕生日はデート?」
「ううん。土曜日はいつも部活だし、次の日曜は練習試合だって」
「なんだ、冷たいな」
「冷たいとかじゃないでしょ。部活なんだからしょうがないじゃん」
「大人だねえ、水木先輩。年下の彼氏持つとそうなっちゃう?」
「だって、そんなことでわがまま言えないでしょ」
「我慢ばっかりしてるから、ぶち切れて俺に電話してくるんじゃない?」
「迷惑?」
「全然」
「ほんとに?」
「迷惑だったら呪いのくま人形でもあげてるよ」
「やだそれかわいいかも。どんなの?」
「毎日午前2時になると、お経みたいに円周率を唱え出す」
「キモい」
「般若心経と違って終わらないからな。夜が明けるまで言い続けるぞ」
「でも、2時って絶賛爆睡中だから、それくらいじゃ起きないかも。わたし震度3程度じゃ起きないし」
「何時に寝るの?」
「11時」
「で? 何時起き?」
「5時」
「早いね。部活でもないのに」
「朝勉強するの」
「やっぱ真面目だな君は。俺も5時起きだよ」
「そうなの?」
「3キロランニングするから」
「部活みたい」
「ひとり部活ね」
 日曜の予定は? って訊きたいけど、AがダメならBっていうのは失礼じゃないかと思う。
「日曜も走るの?」
「日曜は5時起きはしない。その代わり、午前中テニスサークル」
「ほんとに部活じゃない」
「たるんだオッサンにはなりたくないから」
「カッコいい」
「今頃気付いた?」
「思ったよりストイックなのね」
「どんなだと思ってたんだ?」
「ビール飲んでる人」
「当たってるよ」
 と言って笑った。
 それはたぶん、S 校生の中でわたししか知らない秘密。
「ねえ、ストイックな織田先生は夢ってある?」
「夢? 夢ねえ」
「ノーベル賞?」
「それは夢じゃない」
「違うの?」
「それはね、目標だ」
「目標……」
「夢なんて言葉で語ってたら実現しない。ノーベル賞は達成するべき目標。俺の人生があと50年あるとして、そのどこかで教師を辞めて研究者になるなら、可能性はゼロじゃない」
「……すごい」
「ゼロじゃないってだけだよ? 0.0000って小数点の後ろにゼロが200個くらい並んでても、可能性としてはただのゼロじゃないんだからね?」
「200個って」
 円周率レベルで壮大すぎる。
「で、水木の夢は?」
「わたし? ダメ、教えない」
「えっ、俺に訊いといて?」
「お願いごとは人に話したら叶わなくなるから」
「神頼みなの?」
「だって、どうしたら叶うかわかんないし」
 先生は少し考えて言った。
「テニスに必要な4つのCって知ってる?」
「知らない」
「Control、Combination、Concentration、Confidence。まあこれはどうでもいいんだけどね。夢を叶えるのに必要なC、D、Eを教えてあげるよ」
「それも英語?」
「Continuation、Desire、Effort。継続、熱望、努力。この中で1番重要なのは熱望。継続にも努力にもモチベーションが必要だ。熱望すればモチベーションが上がる。本当に叶えたいと、心から思うこと」
「叶うかしら」
「叶えたいんでしょ?」
「うん」
「じゃ、熱望して」
 それが自分のことだなんて知らない王子様は、わたしの目を見て微笑んだ。

「それ、怪我したの?」
「え? どれ?」
 絆創膏を巻いた親指だ。
 剥がれかけたのが気になって、無意識にいじっていたみたい。
「切った?」
「ううん、針刺したの。家庭科」
「あー、納得」
「何よ納得って」
「あのクッキー食えばわかるよ」
 先生は笑いながらわたしの左手を掴んだ。
「これ、剥がれた所に汚れが付いて菌が入るかもしれないから、取っちゃった方がいいよ」
 いきなり手を握られた形になって、急激に鼓動が速まる。血圧上がって傷口から血が吹き出したらどうしよう。
「消毒する? 準備室にエタノールあるよ?」
「え、大丈夫」
 やだ、息苦しい。酸素不足の金魚ってこんな気持ち?
「菌入ると膿んで治りにくくなるよ?」
「ア、アルコールは、酔っちゃうから」
「はあ? なんだそれ」
 先生は構わず親指の絆創膏を剥ぎ取った。
「いくら酒が弱いからって、エタノール消毒で酔うか? アレルギーならわかるけど」
「そのまま、触らないで」と準備室に入っていって、エタノールのボトルとカット綿を持って出てきた。
 左の手首を握られて、親指にエタノールを吸った冷たいカット綿を当てられる。アルコールのツンとする臭い。
「しみる?」
「しみない。冷たい」
「ああ、ゴメン。電子レンジはなくて」
「エタノールチンするの?」
「40度くらいならね。高温になると引火する。でも蒸発する時に気化熱奪うから、あんまり意味ないと思うけど」
 消毒された指先だけが冷たくて、手のひらと顔は熱い。
「あっためるとホットウオッカみたいになっちゃうから、それこそ酒弱けりゃ蒸気で酔うな」
 言いながらわたしの顔を見て、眉を寄せた。
「まさかほんとに酔った?」
「え?」
「顔赤いよ」
「え、あ……」
 今度はおでこと首の裏側に、左右の手のひらを当てられた。
「熱はなさそうだな」
 ひゃああああああ!
 かえって熱出るからやめてえええ!
「ちょっと目が潤んでるよ。風邪かな。喉は?」
 そんな近くで顔を見ないで。
「は、鼻……」
「鼻水? 鼻詰まり?」
 鼻、鼻血出そう。
 ダメだ、もういっそ失神したい。
 そしたらお姫様だっこして保健室に連れていってくれるかな。
 重いって言われたらどうしよう。失神してたら死体みたいに重いんじゃないかな。
 意識があれば首に抱きつけるのに、残念。
 今日のパンツ何色だっけ。たまごっちのパンツはいてきてないよね?
 あんなの見られたら切腹ものだわ。介錯は美奈にお願いしなきゃ。
「これから熱出るのかな。ゾクゾクするとかある?」
 ゾクゾクどころじゃないです。鳥肌が沸騰しそう。
 幸せにも致死量ってあるわよね。
「心配だな。送ってく?」
 そんなことされたら、
「家までもたない……」
 出血多量で死んでしまう。
「え、マジで? そんな具合悪いの?」
「ちが……ちょ、タイム」
 返事を待たずに実験室から走り出た。
 行き先はレディースルーム。つまりトイレ。
 ドアを開けて飛び込み、後ろ手で閉める。
 はー。
 はー。
 はー。
 はー。
 あー、マジで死ぬかと思った。
 あんなことされたら、その気がなくても勘違いするでしょ!
 もー、乙女の気持ち全然わかってないんだから。寿命が縮むじゃない。
 もっと自分の罪深さを自覚してほしいわ。
 気を落ち着けるために、個室に入って用を足した。
 パンツは白地に赤の水玉だった。たまごっちじゃなくて良かった。
 見せる予定はないけど。

 何事もなかったような顔で実験室に戻る。
 織田先生は待っていてくれた。
「どしたの、気分悪くなった?」
「お、おしっこ我慢してて」
 嘘だけど。
「おしっこって! 女の子がそんな言葉」
「トイレ行くって言うと、大の方かもって思われるでしょ! だからおしっこ行くって言うのよ、女子は」
「なんだそれ! 女子理解できねえー!」
 先生は無邪気に笑っている。
 わたしだって男子の気持ちは理解できないわ。特にこの人の考えてること。
「風邪じゃないなら良かったよ。来週期末だし」
「わたしが悪い点取ると物理の平均点下がるしね」
「そんなのは問題じゃない」
「じゃ何?」
「君は熱があってもテスト受けるだろ? だから単純に心配なだけ」
 ほらまた。
 わたしよりも世の中の悪いこととか汚いこととか、たくさん知ってるはずなのに。どうしてこんなにピュアなのかしら。
 裁判長、検察は終身刑を求刑します。
 判決を言い渡します。主文、被告人を終身刑に処す。
 そして、いつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ。
 なんか変なおとぎ話になってる!


 家に帰ると、先生にもらったキーホルダーを本棚に飾った。
 本当はサブバッグに付けて一緒に学校に行きたいけど、なくしたり汚れたりしたら大変だから。
 あなたを付けてもいいくらい大事なものができるまで、ここで待っててね。
 それがなんなのかまるでわからないけど、絶対に見つけるわ。
 キーホルダーなんだから、飾っておくだけじゃかわいそうだもの。
 壮大なアドベンチャーゲームの幕開けみたいでわくわくする。
 人差し指でテディベアの頭を撫でて、
「それまでいい子にしてるんだよ」
 とささやいた。


 朝5時、アラームが鳴る。
 わたしはいつも通り隣で寝ているピンクのくまをギュッと抱き締める。
「モモちゃんおはようー」
 そして、
「先生、おはよう」
 同じ時間に起きるあの人にテレパシーを送って、モモちゃんの鼻先に軽くキスした。
 先生がくれるんだったら、呪いのくま人形でもいいんだけど。
 毎朝キスしてあげたら、そのうち円周率じゃないことを言い出すかもしれない。

 キミガスキダ

『0.0000って小数点の後ろにゼロが200個くらい並んでても、可能性としてはただのゼロじゃないんだからね?』

 おとぎ話が現実になる可能性は、小数点以下いくつゼロが続くだろう。
 それでもただのゼロじゃないならば。
 夢も憧れも、捨てずにそのまま取っておく。
 明日わたしは18歳になるけど、まだまだ夢見る少女でいたいから。



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