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【小説】#3ワーク、アフェア、ジョブ

第3章
激変、劇変
“2020年 蜜月”

 

 パンデミックが宣言されて以来、病院の様子は変わっていった。発熱外来が新設され、通常業務と並行して稼働しているし、院内放送では1時間ごとに感染対策を呼びかけていた。

合間に患者急変を知らせるチャイムが鳴ると、どの知らせのものか分かりにくいので、とチャイムが変更されたり、近隣病院で救急外来の受け入れが制限されたため、救急患者数が増えて人手不足が生じているので院内応援で看護師を派遣してくれとか、病床確保のために今は出せないとか喧々けんけんごうごうとしていた。

「え、砂肝さん休みなんですか?」
 リーダー業務の一環で、手術の人員配置計画を立てていたりりかは、寝耳に水といった様子で熊田主任を見上げていた。

「そう。それから私と春日先生で手術室の感染対策を考えないといけないから少し抜けるね。人手が必要になったら教えてちょうだいね。すぐ来るから」
 りりかは会議室に去っていく熊田と斉藤を見送りながらため息をつき、手術予定表に鉛筆で書き込んだ看護師の割り振りで、砂肝と書いた分を消した。

代わりに誰を当てようかとしばらく頭を捻っていると、リーダー用PHSが鳴った。画面には整形外科医の名前が表示されていた。
「はい、緊急手術だったら泣きますよ」
「んん?その声は塚ちゃんかー。いや逆だね。来週の変形性膝関節症手術の患者さんが、感染が怖くて入院したくないってキャンセルになったから、その連絡。まあ、急ぐ手術でもないから延期でいいかなーと。じゃ」
 

通話が終了して程なく星も同じ話をするためりりかの所にやってきた。
「つかやんも聞いたか?あと明日手術予定で、今日入院予定だった整形の患者さんもキャンセル」
「どの手術ですか?」
「これじゃ、伊治原先生が麻酔する予定の膝のやつ」
 

砂肝さんに割り当ててた分だラッキーとばかりに、りりかは手術予定表にキャンセルの表示を追加した。
「そういえば、斉藤先生は感染対策に行きましたけど、その分の麻酔担当医はどうにかなったりします?」

 そう言って星に顔を向けると、星が曇り顔になっていた。しばしの沈黙の後、星は重い口を開いた。
「本来なら感染対策は部署長の、伊治原部長の仕事なんじゃが、部長がまだここに慣れてないから任せる言うて、全部春日先生に振ったんじゃ。あとは現場のこともわしに丸投げじゃ」

「ふうん?慣れてないなら仕方ないんじゃないですか?」

「そう思うじゃろ?あの人の丸投げはそんな次元じゃない!最初からやる気ないんじゃ!」
 思いがけず強い反応が返ってきたので、りりかは困った。どうしようかと周りを見ると、ちょうど静男が休憩から戻って来た。

「あ、尾花さん、明日の膝手術延期になりました」
「何ぃ!?なんで?」
「感染が怖いって」

なんだそれ、と静男は例の如く大きな声で言うので、それを聞きつけた明石誠あかしまことが何事かとやって来た。
「延期だって、延期!」

 静男がりりかの告げた事を繰り返すと、明石は仕方ないよと返した。この手術室のシーラカンス、もとい重鎮看護師である明石のひと言で静男は大人しくなった。

「砂肝さんも子どもたちの学校が休校になるので休みになります」
 終礼報告でりりかが告げると、スタッフたちはざわついた。そこに感染対策室からの通知を熊田と斉藤が告げるとさらにざわついた。

「手術制限だって?じゃ、オレたちは何をするんだ?」
静男が抗議するように声を上げた。熊田は続きを聞くようにと静男に目配せした。

「と、いうわけで私たちは院内応援に行くことになりました。面会制限を含めた各種制限は5月から本格運用になります」

「個人防護服はどうなっているんですか?」
 そう聞いたのは手術認定看護師の酒田昭さかたあきらだ。酒田の隣にいた浜崎優はまさきゆうも興味深そうに熊田へ視線を向けた。熊田は質問の意図を理解しかねる様子で、話の続きを酒田に促した。

「いえ、認定看護師会用のSNSで、n95マスクを含めた個人防護服が不足しているので、手術用には昔の布ガウン一式を引っ張り出した、という病院があったので」
明石さんもよくご存知のやつ、とニヤニヤした様子で酒田が言うので、

「いやいや、布ガウンなんていにしえの物品、そんな年寄りじゃないですよー。熊田主任こそよく知っていらっしゃるのでは?」
「こら!あんたと私は大して変わらないでしょうが!」
 3人の流れるようなやりとりには失笑を禁じ得ず、手術室内に笑いが広がった。ひと通り笑った後で斉藤が神妙な顔で告げた。

「うちの感染対策室は優秀です。当面の防護服不足は回避できそうです。が、豊富にあるわけではないので、一部の物品は使い回しになると思います。というか、なります」

ひえ、と誰ともなく声がした。りりかは酒田が、やっぱり布復活かー、やっとディスポ化できたのに、と呟くのが聞こえた。
「あと、グループ病院含めて県外からの応援も休止です」
と斉藤が思い出して付け加えると、げえ!と静男が言うのが響き渡った。下根先生は来れなくなるのかー、と誰かが呟いた。斉藤がその声に相槌を打つと、先ほどとは打って変わってがっかりとした雰囲気になってしまった。

「以上、解散!」

 こうして手術室看護師の面々は院内の要請があった部署へ日替わりで応援に出向くことになった。
救急外来、発熱外来、外科病棟などで慣れない業務をしていると、改めて、看護師免許を取得してから、ずいぶん長いこと手術室で働いていたのだなぁ、とりりかは病棟での自分のぎこちない動きにしみじみと思った。

手術室の稼働が制限される事は、病院収益上の大きな損失を意味した。それを知っても手術室で働いている面々に何ができただろうか。

ただ、他部署応援に精を出すだけである。それでも5月中には、この体制も長く続かない気配がしていた。

それでりりかは再び手術室に顔を出すようになったのだが、手術に制限がかかる前よりも麻酔科医同士の関係が悪化しているように感じられた。
「…?」

手術制限中はずっと張り付いて手術室を管理していた熊田主任も、心なしかイライラしているように見えた。


 世界的に流行していた感染症は、果たして局地的には収まる兆しを見せていた。それで、この年の中旬を目の前にして、ニュースは再び経済対策や環境対策について議論し始めていた。
 地元の新聞には、地元で馴染みのある酒造所が消毒用のアルコールを生産したという記事が掲載された。

4章https://note.com/_1609/n/n843fed1f1caf

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