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【小説】#4ワーク、アフェア、ジョブ

第4章
狼煙を上げてみたものの
“2020年 憤激”


 この病院の手術室の感染対策を“任されている“斉藤が、熊田主任と共に、インターネットで拾い上げて来た各学会の感染対策情報を整理して久しい。

「いやー先生がいて助かるわー。私だけだとこんなに症例報告とか集められないもの」
熊田はにこにこしながら斉藤を労っていた。ここ最近の急激な変化に、斉藤はまた休みがちになっていたのだ。

今は、収まったとはいえ、次の流行の波が来る事を想定して、対策の見直しを行っているところだった。
「はは、お気遣いありがとうございます」
 りりかが休憩室の隣にある記録室に来た時、2人は書類に埋もれながら仕分け作業をしているところだった。

「わー、こんなにあるんですか?げ、英語だ」
「大丈夫ですよ、直接感染対策に関係しているものを仕分けたら、これより少なくなりますから」
と苦笑いしながら斉藤がメガネを直した。すると突然りりかの隣にいた浜崎優がりりかの腕を掴んで口を手元で覆った。なにごとかと思って隣を見るのと、優が「カッコいい!」と声を上げるのは同時だった。

「ええ!先生!メガネ姿カッコいい!やばい!」
普段はコンタクトなんですが、ちょっと、と斉藤は困ったようにまた苦笑いした。その照れ臭そうな様子にも優はますますカッコいい!と連発するのだった。

「イケメンパワー補充〜!よし、午後から頑張ろ!ね、りりか!」
「そ、そうだね」
 なかば優に引きずられるようにして、りりかが手術室に戻ると、手術を終えた明石が使用済みで血だらけになった器械を片付けているところだった。2人はお疲れ様です、と声をかけるとそのまま明石が出てきた部屋に向かった。ちょうど、静男や砂肝が片付けを始めていた。

「あの野郎、準備くらいテメエでやれっての」
 

 静男が不機嫌そうに感染物廃棄用の赤袋にゴミを突っ込んでいた。砂肝が、ハイハイと呆れたように相槌を打った。
「砂肝さんは何とも思わないんですか!あの女医、お上品に喋って色々オレらに言ってくるくせに、全然、実力が伴ってないじゃないですか!」

 あの女医、と呼ばれる人物はこの手術室で1人しかいない。ああ、またか、とりりかは思った。どうも静男と伊治原京子の相性は悪いようだ。
「それは私たちにはどうにもできないし、する事じゃないわ。そう言っている暇があったら、自分達の腕も磨かないと」

 手術室の体制が元に戻り、手術件数が増加していくに従って、静男の愚痴が聞かれるようになった。また、星や瑠偉も伊治原のことを女医と呼んで、最近ではまったくあけすけに毛嫌いしていた。
「もーどうしてこうなったかなー」
砂肝は静男の敵意剥き出しの態度を持て余しているように呟くが、その実何も困っていないだろう事は、彼女の普段の様子から容易に想像できた。
「はい、はい、掃除して次の準備!」

 一難去ってまた一難というか、この感染症騒ぎで明らかになったのか、伊治原は想像以上の問題児だった。下根が連れてきた人物なので、一癖も二癖もある事は予想していたが、斉藤や星とは全くタイプが違って、くせ者だった。

部長権限で、朝令暮改で意見を変えるので、星たちはその度に振り回されていたし、熊田や看護師たちも例外ではなかった。
それで、また医師応援が再開されて下根がきた時には麻酔科医たちと熊田が訴えるのだった。

「うーん、伊治原先生が逃げるから突っ込んで話せてないんだよね。僕が連れて来たから心苦しいけど、まあ、彼女の性格もあるし、ここはひとつ見守ってくれないかい?」

そう下根に言われると、彼に恩義を感じている面々は仕方がないと溜飲りゅういんを飲むのであった。そして、下根ならこの状況をどうにかできるに違いないと信じていた。

 程なくして、クラスターが系列病院で発生したので、職員各位は行動に注意するようにと通知がされた。
「うわ、また制限とか、応援休止になるのかな?」
 りりかは通知にひと通り目を通して呟いた。ニュースでは、世界全体の感染者が1600万人を超えたと報じていた。かくして再び、様々な制限が課されるようになった。
 

また慌ただしくなったが、斉藤と熊田が近隣病院や学会報告から集めた情報で作り上げたマニュアルは、無事に改訂された物に差し替えられていた。差し替えられたマニュアルは部署朝礼で読み合わせをして、スタッフで統一した対応ができるよう図られた。

「ええ〜?挿管そうかん抜管ばっかんの時にn95とゴーグルをつけるんですか?」

 特に全身麻酔時に気管挿管する時はエアロゾルの曝露リスクが一番高いと考えられたので、強化された。

「酒田にも確認してもらったけど、やっぱり術前にPCR検査で陰性でも、術後から陽性になる事例があるようだから、念には念を入れてね。本当はフルPPEぴーぴーいーにしたいくらいよ?」
 フルPPE、と静男が繰り返した。n95とゴーグル以外にも全身に防護服を着る方法だ。だが、この頃にはそのような物品は発熱外来や感染症病棟に優先的に供給する事になっていたので、手術室の分は潤沢ではなかった。

「じゃあ、じょ、麻酔部長にも報告してくるから」
「あ、あの人はどうでしょうかね…」
斉藤が自嘲気味に呟いた。星と瑠偉も頷く。熊田は困ったように顔をしかめたが、院内マニュアルで決定事項だからと記録室の、自分の席で熱心に麻酔学会誌をめくる伊治原に伝えに行った。

「あーあ、下根先生にまたしばらく会えなくなるのかー」
瑠偉が大袈裟にわざとらしくため息をついた。
「イヤー、先生!それはオレらも同じ気持ちですよ!」
すかさず静男が合いの手を入れた。星が何か言おうと口を開きかけたが、PHSが鳴ったのでそれに対応すると、なにやら呼び出しだったらしく、医事課に行ってしまった。

「信じられない!」

 熊田が見たことないほど怒った様子で手術室に戻ってきた。明石が慌てて、センパイ、皺が増えますよう、と言うと、
「そんなことどうでもいい!あの女!」
お口が悪いですよ熊田センパイ!と再び明石がなだめようとするが、熊田の怒りは収まらないようだった。

「なんて言ったと思う?あの女医!」
 たまたまその場にいた明石、静男、りりかが顔を見合わせると、答えを聞くまでもないと、熊田が続けた。
「エビデンスは?ですって!世界中のどこにもないわよ!このウイルスの確固としたエビデンスなんて!この半年近く何見てたのあの!」

 女、とますますヒートアップする気配のみせる熊田の報告に3人はどうしたものかと互いの顔を見た。こんな事があるだろうか?自分達が何に対応して来たのか何も分かっていないということが?

 やがて状況はさらに悪くなったことが様々な口を通して告げられた。再びの休校、店への時間短縮営業の要請、近隣病院での診療制限、それに伴って増加するこの病院の救急外来の受診患者。

それよりもなお、手術室にとって最悪だと思われたのは、星が医事課から告げられた突然の下根太郎の応援打ち切りだった。
「何の予告もなしに?」
静男が声を荒げた。
「いや、麻酔科部長には言ったが、人員編成とか話が進まないけぇ、医事課がわしに確認しにきたんじゃ」

何だそれ!と静男は憤慨してそのままの勢いで医事課まで怒鳴り込みに行った。

しかし、程なくしてうなだれて戻ってきた。スタッフたちはその姿から、どうにもならなかったとわかった。

「…グループの上層部が、前から応援費が高額だから打ち切りたがってたらしい。現場も知らないくせに!下根先生がどれだけこの病院に貢献してるか!」
怒りの収まらない様子で静男は叫ぶように言った。

「あの、女!上層部のイエスマンになりやがって、何考えてんだ!テメエだって下根先生がいたからここに来れたんだぞ!」
あんなんだから前の病院で虐められんだよ、と静男は吐き捨てると肩を怒らせて自分のロッカールームに行ってしまった。

残ったスタッフたちは呆然ぼうぜんとして立ち尽くしていた。我に返った星が、慌てて下根に連絡を取った。りりかたちからは離れてしばらく話し込んでいたが、やがて戻ってきて、力なく話し始めた。

「下根先生、なんて言ったと思う?いやー退職前からちょいちょい上層部の皆さまには噛み付いてたからね〜やり返されましたね〜って笑いながら言うてた」
怒りの矛先をどうしたらいいのか分からない様子で星は声を詰まらせながら言った。

 悪い夢だ、きっと打ち切りなんて取り消されるだろう、そんなスタッフたちの願いもむなしく下根が再び来ることはなかった。やがて斉藤は病んで出勤できなくなり、伊治原麻酔科部長から出勤かさもなくば退職するよう迫られた、と手術室看護師たちは瑠偉から伝え聞いた。

 n95とゴーグルを装着した挿管介助に慣れた頃、りりかが記録室で電子カルテを見ていると、近くで瑠偉が伊治原に対して麻酔手技の根拠と手順について意見しているのがドアごしに聞こえた。詳しくは聞こえなかったが、どうやら伊治原はタジタジとしている様子だった。瑠偉は一年目研修医を厳しく指導しているかの様な口調だった。

 最近は静男もあからさまな態度で伊治原の麻酔介助をしている。りりかはため息をついて立ち上がると、今日の仕事は終わったんだし、と帰り支度をしに更衣室に引っ込んだ。

 2020年も終わりが見え始めた頃、ある日の部署朝礼で、星と瑠偉が神妙な面持ちで前に立った。それから互いに誰が話し始めるか譲り合った後、星が話し始めた。

「えー、この度、地元に戻って親の手伝いをすることになりました。ここの手術室はホントに居心地が良く、こんなわしでも麻酔科医として看護師さんたちも受け入れてくださって、ホントにありがとうございました」
悔しそうに深々と星は頭を下げた。そんな、先生と静男が声をかけた。

「オレらだって先生にはたくさん助けられましたよ!」
いや、いや、と2人の間で長くかかりそうな掛け合いが始まりそうだったので、熊田が瑠偉を促した。瑠偉は重そうに口を開いた。

「来月から麻酔科医としてはここ来れなくなりました。救急医としては来ますので、今後もよろしく頼みます」
え、と看護師たちに衝撃が走ったのが分かった。いや、静男と熊田だけは前から知っていた様子だった。熊田が続けた。

「と、いうわけで、麻酔科医も減って手術室もこれから大変になると思いますが、皆さん、事故のないよう気を引き締めてやっていきましょう」
「そ、俺も時々来るし!」
ケラケラと瑠偉は笑って見せた。と、静男が熊田を促した。熊田は少しためらいがちに、また話し始めた。

「えーと、原久先生が出入りに制限がかかったのと関連するのですが、副医院長から、手術室看護師を伊治原先生がパワハラで訴えていると報告を受けました」
顛末てんまつはこうだった。まず瑠偉に激しく意見された伊治原が、瑠偉が大声で怒鳴り、怖いのでどうにかしてくれと副医院長に泣きついてきたという。それで話し合いがもたれたのだが、そこで瑠偉の手術室への出入り制限が決まった。ついでに看護師がパワハラをすると訴えてきたのだという。

 看護師たちは今までに経験したことのない事態に呆気あっけに取られて、もはや何と返せば良いか分からなかった。
「…なので、これからは言動に注意してください、としか私の方では言えません。私も皆さんを守りたいので、皆さんも自衛してください。次はこんな事がない様に」

 朝礼が締められ、スタッフたちはそれぞれの担当する手術へと散っていった。りりかは瑠偉の担当する手術と同じだったので聞いた。
「斉藤先生はどうなったんですか?」
「斉藤先生は、下根先生のいる病院に行くことになったよ。その方がいいでしょ。他の所ではうちと同じように、急な休みを取りながら働くのは難しいでしょ。下根先生がフォローできる所しか行けないんじゃない?」

それもそうだ、とりりかは思った。それから、世の中だって大変なのに、うちはどうなるのだろう、と考えずにはいられなかった。

 蔓延まんえんした感染症が損なったのは体の健康だけではなかった。精神科や心療内科の需要が高まった他、それを裏付けるように、自殺者が増えたことも報じられた。ただ、この年は企業の内部留保のおかげか、破綻する会社は思ったより少なかった。

最終https://note.com/_1609/n/n47f48c02c009

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