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【小説】#1ワーク、アフェア、ジョブ

プロローグ
 塚山りりかは険しい表情で抹茶ケーキをつついていた。ケーキをぱくりと頬張りたいのに、つついた先から地滑りのように崩れてボロボロになるので、結局はちまちまと食べざるを得ないのだ。
 

また、修羅場明けの遅い朝食である事も、眉間に皺が刻まれる要因の1つだろう。さらに、使っているフォークと洒落た焼き物の皿は相性が悪く、何気なく擦れるたびにキーキーと不快な音がするのも追い討ちをかけている。
 

何度かため息をついた後、やっとの思いで店を出ると、外は眩しかった。思わず目を細めて辺りに日陰を探すと、今しがた出てきた店が目に入った。
(地元で定番のチェーン店なのに)
 

日陰を諦めて通りを歩き出すと疲労感をさらに感じ、まっすぐ歩くほどに頭の中はあちらこちらへと踊り出した。通りの目につくさまざまな情報が脳内へなだれ込んで色々な思考が交差する。

 クリスマスセール。空が青い、太陽が眩しい。カフェサザン、オープン11時から。あ、この事故のニュースさっきの患者さんのだ。はは、がんばったなー。ホンダ美容形成クリニック。あなたの街の法律相談所。中国武漢市の市場いちばでウイルス性感染症流行、SARSか。あーSARSの時はこの業界いないからなー、どんな感じだったんだろ。ちょっと前のエボラは感染対策の通知を見た覚えがあるから働いてたのか。そーいえば来年から新しい麻酔科医が増えるんだっけ。手術室の負担軽減になるといいなー。

 眩しい、眩しい、とぶつくさ言いながら塚山りりかはどうにか帰宅した。シャワーを浴びたあと、ベッドに倒れ込むとそのまま眠りに落ちた。夢の中ではケーキが地滑りを起こし、市場になだれ込んで、スキーウェアをきた集団を飲み込みながら、りりかが先ほどまでいた職場の手術室を散らかしていった。こらー!誰が片付けると思ってんだー!と先輩の砂肝珠子すなぎもたまこが叫んでいた。


第1章
会話の潤滑剤に下ネタはやめていただきたいが
“2019年 昵懇じっこん


「おー、昨日はお疲れさーん。ちょうどつかやんが話題になってたとこだぜ」
 翌日りりかが出勤すると、さっそく手術室の先輩である尾花静男おばなしずおが声をかけてきた。

それともう1人、静男と一緒にいたのは昨日のあの修羅場で共闘した麻酔科研修中のレジデントスタッフだ。名前を原久瑠偉はらひさるいと言うのだが、静男に色々と、どんなに大変だったか話していたようだ。

瑠偉は、りりかを認めるとまるでパーティで会ったかのように声を上げた。
「つかやんお疲れー!いやー久々のでかい交通外傷で、アドレナリンびんびんになったねー!でも、俺たちならできるって信じてたぜ!」
と、なぜか最後の台詞は静男と瑠偉でハモりながらハイタッチをしてきたので、りりかも少し楽しくなってハイタッチを返した。それで静男さらにヒューヒューと盛り上がった。この男は手術室看護師いち声が大きいので、聞きつけた手術室の看護師たちが何事かとやって来た。

するとまた昨日の緊急手術がいかにスリルに満ちたものだったか瑠偉が語り出すのであった。そしてりりかがまたハイタッチに応じると、
「おっぱい?ちんちん?」
そんな声が割り込んだ。しかもご丁寧にハイタッチに手を添えてきた。

「おー!下根先生!元気でしたか?」
静男がすかさず、この割り込んできた丸坊主で無精髭を生やしメガネをかけた、麻酔科医の下根太郎しもねたろうに歓迎の声を上げた。

瑠偉、りりか、他の看護師も喜んでこれに加わった。下根は実にわざとらしく照れ臭そうに笑い、僕のおニューのパンツみる?と言ってズボンを下げ始めた。いつもの事だ。


 下根太郎はこの病院の手術室を鍛え上げた麻酔科医だ。

この病院、どちらかというと田舎に属し、急性期病院らしい忙しさはあり、大規模でもなく、かといって小規模でもない病院、そんな場所でどうしてこんな一流の腕を持つ医者が働いているのだろうと思わされる実力の持ち主である。

だが、彼の人となりを知れば納得もいく。この男はとにかく人が好きなのだ。そして誰よりも患者のことを思い、一緒に働くスタッフをチームとして盛り立てていく。それができるのも田舎の距離感だからなのだろう。

その実力がとかく発揮されるのが危機的状況においてだ。こんな事があった。ある時交通外傷で、何が正常なのか分からないほどの多発骨折、どこが出血しているのかも分からないほどの内臓損傷が疑われる患者が運び込まれてきた。

当然緊急手術になり、そしてこのような事態に対応するスタッフはたいてい慌て、どんどん興奮していく。だが、その中で下根太郎は終始冷静に的確な指示を出していた。その上患者の容態を鋭く先読みし、他のスタッフが容態の異変に気づく頃には必要な薬剤は全て揃えていて、しかも投薬をすでに始めているのだ。
 

下根太郎が麻酔を担当するなら絶対に大丈夫だ。手術室看護師の誰もが口に出さずとも思っていた。だから、彼がこの病院を家庭の都合で退職する時は誰もが残念だと思った。とはいえ、こうして月に一度は手伝いー応援ーに来てくれているのだから、ありがたい。

「先生、ズボン履いてパンツしまって!はい、どうも。ところでお子さんと奥さんは元気?」
 最後にやってきたベテラン看護師で看護主任の熊田が声をかけた。

下根は、熊田さんじゃないですかーと言いながら彼女に抱きつき、熊田は応じつつセクハラだキャーと言うのがいつもの流れだ。
「元気ですよ、ええ」
「いくつになったの?」
「4歳です。最近は父親の真似をして、おっぱいとよく言うようになりました。我が子ながら立派にそだってます。そーいえば、春日はどうですか?」
「あー、斉藤先生は最近調子が良くないようで、先週から休みがちですね」
「んーなるほど…あいつに足りないのは、いいお尻ですね。ええ、間違いない」
つらつらと真面目そうに下根が話すので、その様子に、看護師たちは笑い合って思い思いにツッコミをいれながら、それから思い出したように、手術の準備をするために散って行った。

「疲れたー!」
 そう言って静男が休憩室に入ってきた。彼はりりかを見るなり彼女が担当する午後の手術についてあれこれ言ってきた。

りりかは休憩中は仕事について考えたくない派なので、内心では不承不承、先輩の静男に合わせて相槌を打つのであった。
「…嫌そうだな?」
どういうわけだかこの男はこういったことにすぐに気づくのである。
「え?何々?つかやん、オペ嫌なんか?」
そこに加わってきたのは、手術の合間を見て休憩に来た麻酔科医の星淩一ほしりょういちだった。
「んー、仕事よりも休みたいですよね〜」
「いやーつかやん、その若さでそんな事言わんほうがいいけぇ」
「そうだぞ!お前の覚える事はたくさんあるぞ!」
苦笑いしながら、りりかはそそくさと休憩室から手術場に向かった。

 手術室では手術が行われるわけだが、手術室看護師はその準備から片付けまでを行うのがこの病院のやり方だ。

 手術に合わせた道具(器械という)を集め、手術台にシーツを敷き、麻酔器や電気メスの本体やらの位置を調整し、薬剤を用意し、後は患者さえ来れば手術が開始できるように整え、手術が無事に終われば、血だらけになった器械を片付け、血まみれなったドレープ材その他をまとめて感染性廃棄物としてゴミに出す、そして次の手術の準備をする。

あまりに手術が多い時は休憩もせずにどんどん次の手術を進めていくので、1日が終わる頃には空腹と疲労のためにしばらく休憩室で座り込むこともある。ともあれそんな状況でもここの手術室チームは互いをねぎらい笑いと励ましで、どんな手術でも安全を提供できる事が良いことだと信じていた。

 あまりにしんどくて辛い時でもユーモアを忘れずに手術に臨む姿勢はまさに下根太郎が築き上げたものの1つだった。そしてどんな手術でも引き受けるための、最も重い責任を喜んで背負ったのもこの男だった。

(ワーカホリックなんじゃ)
仕事納めの部署打ち上げに加わってはしゃぐ下根を見ながらりりかは思った。
「かんぱーい!」
この日、仕事終わりにスタッフ全員が集まり、お茶やコーラ、ジュースを片手に主任の掛け声と共に乾杯を上げた。いや、1人だけ「ちんちん!」と言ったのもいた。


全5章です。

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