見出し画像

【小説】#2ワーク、アフェア、ジョブ

第2章
事の始めに事がある
“2020年/2019年度”

 仕事始めは怒濤どとうごとく開幕した。緊急手術に次ぐ緊急手術で看護師たちは走り回り、後回しになった予定手術が積み重なっていき、休憩時間はどんどん削られていった。しかし、何事も終わりがあるように、その波を乗り切ればまたなぎが戻ってくるのだ。

「なんなんだこの忙しい時とそうじゃない時の差は」
 

全部で6部屋ある手術室のうちの一室で電子カルテを操作しながら、この日リーダーを任されていたりりかはぼやいた。
「ホントにどうにかならんかの〜」

その呟きを星が拾って相槌を打ったので、話題は新しく入職する予定の麻酔科医に移った。
「わしはこの伊治原京子いじはらきょうこ先生が来たら部長職を譲るけぇ、よろしく!いやーホント下根先生はこんな業務量を麻酔科医が1人の時にやってたと思うと、あの人はホント変態じゃのう!」

「しかも過疎地の応援にも行ってましたからね」

「ホントに、わしには無理じゃ。そもそも、わしは部長職になれるような年齢じゃないけぇの。上級医の下根先生がぜひにっちゅうので引き受けただけだしの」
星は重荷がおりて、ほっとしたように饒舌に話し続けた。
「伊治原先生は下根先生より下だが、わしよりも上級医になるけぇ、部長職を引き受けてもらった。管理者業務を伊治原先生がやってくれれば、わしも現場で動きやすくなるけ、今よりも色んな麻酔ができるようになると思うから、つかやんも付き合ってな」

「あはは、善処しまーす」
「やや!何、看護師さんたちが難しい事をやるわけじゃないけぇ、頼みますよ〜」

「いやいや・・・ところでどんな先生なんですか?」

「ん?いや、わしも詳しくは知らんのよ。ただ、ほら、下根先生は春日先生やわしみたいな困った人を助けるのが趣味みたいな人じゃろ?伊治原先生は前の病院で麻酔科医なのに、麻酔をかけさせてもらえないで困ってたのを、その病院に応援に行っていた下根先生がたまたま見かけて、声をかけたらしいんじゃ。ウーン、下根先生は伊治原先生を、よく言えば天真爛漫な人と言っとったがな」

「よく言えば?つまり悪くいうと?」
りりかはにやりとしながら聞いた。

「イヤー、下根先生に聞いてくれ!」
へへへ、と2人して笑いながら、きっとこれからこの病院の手術室は良くなるに違いないとこの時はのんきにしていた。


 さて、年始に手術室が怒濤の如く緊急手術にもまれていた頃、世間はまだ、凪のひと時を過ごしていた。そんな日本の沖合を一隻の大型客船が航行しており、その中に風邪をひいた乗客がいたのだが、誰も気に留める事はなかった。
 この乗客と同船しているウイルスはまもなく、日本にある地方都市に寄港し、その後横浜に入港することになっていた。

 手術の終わった部屋を片付けながらりりかはふと、年末のニュースを思い出した。武漢市の感染症は確か新型のウイルスだと分かっていたが、このご時世、越境は容易にできてしまうのではないか?一度気になると妙に仕方がなかったので休憩時間にテレビを見たが、持続可能な経済開発について話題になっているだけだった。

いや、一瞬、ワールドニュースのコーナーで感染が広がっていると触れられていたが、対岸の火事然としていた。
 しばらくしてその様子が変わったのは、横浜に帰港した客船に感染者がいたと分かってからだ。

「お、今話題のウイルス!」
え?とふらりとやってきた瑠偉にりりかは聞き返した。瑠偉はまだ聞いてない?と話し始めた。

「昨日、うちを受診したタクシーの運転手がこのクルーズ船の乗客を乗せた事があってね、風邪の症状があるからって受診してきたのさ。事前に電話してね。だから別室で対応したんだ」
「へー」
「まあ、手術室にはあまり関係ない話かもね」

そうかなぁと言うのと、世界的に防護服が取り合いになっていると報道されるのとほぼ同時だった。
「ん!ウソ!ごめん、関係あるかも!」
あははは、りりかと瑠偉は変にバカ笑いしてそれぞれ仕事に戻った。りりかは翌日の手術に向けて、術式と患者状態に合わせた器械を確認し、ひと所に集め、ついでに執刀医の癖に合わせた物品も追加した。

 その頃、瑠偉は星とそれから久々に出勤していた斉藤春日と3人でまじめに馬鹿話をしていた。その様子を見ていた熊田が、砂肝に、あの空間はまるで男子校みたいだと話していた。砂肝は、うちの息子たちもああなるのかしらと、と熊田と2人で苦笑いしつつこれがうちのオペ室だからと呆れた様子で退勤するのだった。



 この年の上旬、WHOが新型ウイルスのパンデミックを宣言した。このような世界的流行は1918年の、いわゆるスペイン風邪と呼ばれたインフルエンザ以来と言われ、またその時よりも大規模であることがニュースでも繰り返し流れた。
 かようなウイルスに方策を立てようにも、科学的根拠が揃うには時間を必要とし、よって100年前に有効だとされた手段ー換気、消毒、マスクをするーなどの他に感染対策は練りようがなかった。

3章https://note.com/_1609/n/n4763977a5084

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?