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いったい誰に何を謝っているんだろうか

 民法のテレビ放送って、うんざりしちゃうのが多いからほとんど観ることはないのだけれど、日曜日の掃除中、なんとなくワイドナショーを点けていた。いつもは電源もひっこ抜いて、ひたすら掃除をするんだけど。
 掃除機をかけたり、部屋を行き来するから聞こえてないところも多かったけど、先日の放送では芸人の方が復帰に向けた(たぶん)出演をしていて、どうやら数か月前に報道された女性関係のもめ事なんかを謝罪していたみたいだった。

 日々の芸能関係のゴシップなんかも、ほとんど把握していないから(というかそもそもテレビに出ている人に知らない人が多い)、何があったのか知らないけれど、最近こういうのが多いなあ、とおもう。それで、何かちょっとしたことで記者会見を開いたり、番組のなかで謝罪みたいなことをしているけれど、どうして世間に謝らないといけないんだろうか、とおもう。内輪のことではないのか、わざわざ公に向かい、たくさんの人の時間とお金をつかって謝らないといけないようなことなんだろうか、パートナーや近しい人がもういいと言うのならそれで済む話なんじゃないかな、・・・まあ、そういったことがあれこれ浮かんでくるのだった。

 ネットニュースの見出しだけを見てもけっこうくだらないのが多いし、ぱっとみて理解できない書き方のものもよくある。あれってわざとなんだろうか?
 このごろはなにかそういう、自分とはかかわりのない人を、大したことでもないのにひどく批判して、ストレス発散に利用しているみたいにも見える。みんなヒマなんだろうな。自分以外の誰かを標的にすることで、安心感みたいなものを得た気にでもなるんだろうか。(それもおかしな話だけど)
 他に、何かもっと生産的なことにそのエネルギーを使えばいいのに。

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 長崎の秋の例大祭「くんち」は、今年も開催されないこととなった。博多のどんたくなんかは開催されたみたいだけれど、くんちの場合はちょっと地元のごたごたもあって、結局自粛のような恰好となった。
 私自身は祭りみたいなのって、ちょっと苦手とするところも多いし、くんちの人出や熱気というのにはけっこう消耗しちゃうタチなので、えー!がっかり! とかそういうことは一切ない。ないけれど、祭りには人々の有り余るエネルギーを解放するという役割があるのをおもえば、必要なんだろうなという気もしないでもない。

 くんちといえば「くんちバカ」という言葉もあって、要するにくんちに熱狂して、他のことはもう何も手につかないといった種類の人々のことである。6月1日の小屋入りを機に、練習や飲み会や顔合わせにといったあらゆる種類の社交に忙しいらしい。踊町おどりちょうと言われる、7年に1度巡ってくる出演に該当しない町の人でも、わあわあと忙しそうである(つまり具体的に何をやっているかはよく知らない)。
 シャギリと呼ばれるくんち独特の囃子があって、例えば路面電車やちょっと古びた車両のブレーキの音がもうぜんぶシャギリに聞こえるという病もあるらしい。それからお金もひらひらとアッという間になくなっていくそうだ。そういう全部を、その人たちはニコニコして本番までの4か月ちょっとを過ごすのだ。

 くんち中止も3年目である(その間神事のみ)。
 祭り直前の10月3日には庭見せと言って、奉納踊りで使用される傘鉾や曳き物に新調した着物や道具類、それから祝いの品々が各踊町で展示される行事がある。このときに、「御花」と呼ばれる御祝儀袋もずらりと並べられるのだけど、この御花のことがふと浮かんだ。ずっと前に知人の出演時に出したことがあって、そのついでに御花にくっつけて渡す、花紙というものを思い出したのだった。
 祭りがなければこういうものも需要がないんだよな。というか花紙なんかは「花」と書かれた葉書よりひと回り大きいくらいの、文字どおり一枚紙だから、これにはそう費用がかかるようなものではない。ただ祭りがないということは、呉服屋さんも、刺繍屋さんも、手ぬぐい屋さんも、酒屋や魚屋や菓子屋といった地元の商売もなにもかも、経済がとまっちゃうということなんだな、とおもったのだった。

 私にとっては関係の深い物事ではないのだけれど、それでもどこでどんな作用が起こるのかわからないし、地元の経済も文化も損なわれてしまうんじゃないかなどと、ついつい心配になってしまう。
 毎度のことながらこれといった判断みたいなものの出ない私の考えていることも、地域の文化や伝統みたいなものも、昨今の誰に謝ってるんだかわからない言葉たちも、結局はぜんぶ、誰も知らない(気にもしない)ブラックホールみたいなところに吸い込まれていっているだけなんだろうか。
 世の中の傾向がおかしいなと憂えても、文化が失われることを惜しんでも、逆らえないような何か大きな流れがあって、私たちはその前で立ち尽くして、私を含む多くの人は特に何もせず(できず)いずれは死んでいって、別の時代と文化が粛々と、消えては起こって続いていくのが世界というものなんだろうか。

 そういうものだ、それでいいのだ、と言われてしまえばそれまでだけど。

(トップ画像は好きな花のひとつ、ねむの木の花)

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