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大東亜戦争の裏側で

 今日12月8日は、日本軍による真珠湾攻撃(ハワイ時間12月7日)がおこなわれた日ですね。
 記念的に、最近知ったことなどを書いてみたいとおもいます。


戸田帯刀神父射殺事件

 必要があって、横浜周辺とキリスト教(カトリック)のあれやこれを調べていたところ、戸田帯刀とだたてわき神父の事件にあたった。

 戸田神父は、1898年3月23日、山梨県に生まれ、1923年11月にローマのウルバノ大学へ留学、1927年12月17日に司祭に叙階された人物である。
 札幌使徒座代理の職にあった1942年、近親者などへ、戦争が続けば日本は困難に陥るなどといった意味合いの発言をしたことから、また当時理事長を務めていた光星商業学校において教練用の銃剣の購入を遅延させた(資金不足による遅延とする記事もあり)などの理由から、反国体・非国体的として逮捕・起訴されている。3ヶ月間監禁され、罪状は立証されず、無罪となり、釈放された。

 1943年に殉死した井手口美代市神父の後任として、1944年10月に横浜教区長に任命され横浜に居を移した。その後終戦となるが、その当時教区長館のある山手教会は海軍に接収されており、教区長館は保土ヶ谷教会に移されていた。
 終戦日翌日の1945年8月16日、戸田神父は山手教会に行き、軍に対し教会の返還を願い出た。
 それから2日後の1945年8月18日、保土ヶ谷教会の司祭館で、戸田神父は射殺体となって発見された。現場付近ではこの日の午後、憲兵の姿が目撃されており、かつ現場で見つかった弾丸は当時憲兵の携帯する短銃と同型のものだったということだが、この事件について、犯人は逮捕されていないまま現在に至っているという。

 この事件から15、6年後に東京の吉祥寺教会にある人物が現れた。その人物は、戸田神父を殺害したのは自分であること、犯行を悔いていること、遺族に償いをしたいなどの申し出をしたものの、東京の大司教館を通じて遺族の意向を確かめたところ、そのままにしておいてほしいとの希望により不問となってしまったらしい。
 他のところには、この人物が東京のとある病院の病院長にもとにやってきて、この件を自慢げに話したとも書かれている。
 これらが共に事実であるのか、ないのか、知る術はないのだけれど、どちらの件も教会側は知ったうえで追求に動くことはなかった模様。

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カトリック司祭のインドネシア・フロレス島派遣

 1942年5月、日本軍は隣接するいくつかの島々とともに、インドネシア・フロレスを占領した。フロレスに駐屯していた攻略部隊の陸軍が他に転じ、海軍指揮下の陸戦隊が駐留、次いで海軍の警備隊が駐屯した。
 8月にセレベス海軍民政府が成立し、文官の監理官が行政責任を負うこととなった。
 日本軍は、占領後にこの地域共同体に根付くカトリック教会と住民信徒(全住民の70%)の存在を知った。そこでは、オランダ人を含む多数のヨーロッパ神父・修道士・修道女が働いていた。
 そのような地に、「宗教宣撫」のためとして、日本人カトリック司祭が1943年8月に派遣され、現地信徒の司牧にあたるなどしている。

 それ以前の1941年3月までに、日本のカトリック教会(日本天主公教教団)はローマ聖庁と調整ののち、15の教区すべての司教の日本人化を終えていた。開戦前の国際関係の悪化にともない、在日アメリカ人・イギリス人の離日率は増加しており、10月の時点で日本に在留していた宣教師・修道者などは日米開戦後、「敵国人取扱措置要領」に基づき各地に軟禁・抑留されていた(その総数は約940名ほど)。150名ほどであった日本人神父たちは、外国人聖職者の去った教会・修道院などで聖務をこなさなければならなくなった。

 海軍省からの要請を受け、カトリックの司祭ら8名がフロレスに派遣された中に、当時の長崎司教・山口愛次郎、秘書役の岩永六郎神父が混じっている。
 彼らは(約束の任期は1年間だったが)終戦まで奉職し、1946年1月14日に帰国した。

 山口司教は戸田神父と4年違いの1894年生まれで、やはりウルバノ大学に留学経験を持っている。そこでは世界各国から司祭を目指す神学生が集まることから、この人たちは当時の日本人とは違った国際感覚を身につけていたとおもわれる。そのような体験・感覚を持っていることは、戦時には大変な苦労になったことを想像すると、胸がいたむ。

 山口司教が長崎市内の中町教会の主任司祭だった1933年、ここの司祭館が全焼するという事件があった。古い建物で、近隣の家屋にまで類焼し、火元となった司祭館にいた山口神父(当時)は近所の人々の恨みをかい、脅迫に遭うなどしたそうである。
 事件から数年経って、四国の高松で検挙された放火犯(西日本13府県連続放火事件)が中町教会の放火犯であることが判明し、警察署から山口神父に対し出頭の通知が来たものの、行ったところで焼失したものがもとに戻るわけでもないという理由で、行くことはなかったそう。

 戸田神父の事件と合わせ、罪を犯したものへの態度に共通したものを感じるエピソードである。

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池田勇神父

 池田勇という名の司祭は、昭和20年フィリピン・マニラで教会保護挺身の末、日本軍に撃たれ殉死したという。この事件と池田神父とに関する情報は、あまり出てこなかった。
 多少詳しいもので、奄美出身の池田藤吉という伝導士の息子で、長男の池田純彦氏は通学先で全校生徒での高千穂神社参拝の際、カトリック信者として拒否したところ退学処分になったという記事に出合ったくらいである。(聖母の騎士学園 同窓会会報 2018年8月15日)

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旧野首教会 大東亜戦争記念碑

 野崎島にある旧野首教会の敷地に小さな石柱が立っている。石柱には「大東亜戦争記念 昭和十六年十二月八日」と刻まれている。
 外来宗教であるキリスト教各派に対する憲兵や特高刑事への取り締まりが厳しかった戦時中、信徒が非国民などの非難を受けないよう、立てられたものだそう。
 石柱の写真を撮っていなかったので出せない。鐘塔の左下にその石柱が立っている。

旧野首教会(2019年9月)

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 カトリックのことばかり書いたけれど、札幌の市史なんかでプロテスタント(日本基督教団)や教団の認可を得られなかった各宗教結社においてもやはり、外来宗教であるとの理由でいろいろの弾圧を受けた記録がある。
 信仰の自由を得られた矢先のことで、明治から昭和という時代をくぐり抜けてきたキリスト教、とくにカトリック関係のことでこれからをおもうと、人ごとながらどうなっていくんだろうかという気もちがわく。

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今日の「滑りこみ」:日にちをまたがないように焦って書いたので、後日修正を加えるか、付け足し記事を書くかもしれません。

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