おはようの森、さようならの海

この深い森に、出口はないのかもしれない。一匹のきつねはそう思った。ここでは滅多に他の生き物と出逢わない。ただ、日々、生き物とも呼べぬような虫や鼠を見かけたら殺して食べて、果実があったら齧ってみる。川や水たまりを見つけたら水を飲む。日が沈んだらどこかで眠る。なぜそうするの?と、かつては考えてみたこともなかったが。思えばすごく単純なことだ。おなかが空いたから。のどが渇いたから。眠いから。生きるためのことだから。そんなごくごく簡単なことさえ考えたり感じたり、してみたことはなかったのだ。漠然とした本能と、生きるための身体だけがあった。その頃のほうが幸せだった、ときつねは思う。幸せ。いつもより少し多めに獲物が見つかってお腹が満たされること。暖かくて柔らかい洞穴を見つけて眠ること。最初にこれが幸福、と笑って示されたときには目が覚める気持ちだった。そんなことも感じずに生きてきたの?じゃあこれからは生活の全てが幸福だね。彼はそう言って笑った。

幸せは、そういった本能から逸脱すると急に厄介になった。彼のあの瞳は森みたいだ。あの瞳は湖みたいだ。あの瞳は夜空の星みたいだ。見つめるたびにいろいろな風景を思い出す不思議な瞳だった。不思議な瞳と目があうと無性に苛ついた。噛みついて引っ掻いてあの目を屈服させたいと思うこともあれば、あの目に見下されて、罵倒されて、服従してみたい。そのために彼に軽蔑さえされたい、と思うこともあった。あの目玉をくり抜いて舐めて噛んで飲み下してしまいたい。しかし、そんなことをしたらもう二度とあの瞳を見つめることは叶わない。そうなったら悲しい。ああ、彼の双眸を見ているあいだ、自分は幸福なのだ。そう気がついて、雷に撃たれた。それからたちまち嵐がやってきた。瞳を見つめていない間でも、炎で焼かれるような苦しみと、蜂蜜の川で溺れるような甘みが、心臓から尻尾のさき、耳の端まで容赦なく、四六時中襲い掛かった。彼は美しい鹿だった。

鹿はきつねに、ほとんど言葉から教えた。言葉はそのまま感情や思考になった。こんにちは。さようなら。うれしい。かなしい。あさ。よる。みず。かぜ。しあわせ。ふしあわせ。おはよう。おやすみ。鹿ときつねは森のなかで出会った。
「馬鹿なこと考えるなよ。池のなかの月のほうが綺麗だからってじっと見てる。飛び込んで死ぬつもりなの?自殺したいなら、僕が友だちになってあげようか」
鹿はきつねにこう言ったが、きつねは言われたことをほとんど理解できなかった。もちろんきつねはただ水を飲むために池にいて、空の月が反射しているのが不思議でぼうっと眺めていただけだった。しかしそれでも、鹿はきつねの友人になったのだった。

はじめてことばを、かんがえることを、かんじょうを。きつねは知ったばかりだというのに、それなのに間違いはただの一度も許されなかった。いや、今となっては知りようがないけれど、何度も何度も間違いを犯して、そうと知らされていながらわからなくて、とうとう我慢の限界がやってきたのかもしれない。とにかく、鹿はきつねの前から居なくなった。きつねは鹿を悪気すらなく傷つけて、その事実にきつねは傷ついた。とりかえしはつかなかった。仕方のないことだ。鹿はきつねの知らないところで生きている。或いは死んでいる。あの美しい鹿は、熊か猟師に遭遇して血と骨と肉の塊に成り果てているかもしれない。きつねは、そんなことを妄想しては、彼が死なないためならなんだってしたいと思った。しかし、きつねはもう鹿に気軽な挨拶をすることすら許されない。おそらくどこかで生きているのにも関わらず。それでもやはり、どうしようもないし仕方のないことなのだ。

きつねは、仕方がないなと思った。森の出口を探しはじめたのは、鹿の瞳を見つめる日課が消え失せてすることがなくなってしまったからだ。朝、目が覚めると太陽の方角を探す。いつもそちらへ向かって歩き出すことにしている。朝の森は霧が満ちている。息を吸うと肺の場所がわかる。肺から全身の血管へ、朝霧が行き渡って、人生のことがわかる気がする。仕方のないことなのだ。幸福になれないのは。それでも朝起きて、息を吸うと頭が回ってするべきことがわかるようになる。手足に触れる土が湿っている。草も湿っている。花と木の匂いがする。たまに混じって懐かしい匂いもする。たぶん違う鹿の匂いだろう。そんな日はいちにち立ち上がれないこともある。しかし大抵は、やはり太陽の出る方角へ歩みを進める。森の出口に何がある?かつて鹿はきつねに、仮説を述べた。彼だって森の外のことは知らない。きつねは何か、なんでもいいから鹿の知らないことを、知りたいと思った。そうすれば鹿が戻ってくるかもしれないという根拠のない祈りなのかもしれないし、そうすれば鹿がいなくても幸福になれるかもしれないという根拠のない祈りなのかもしれない。

仮説はこうだ。木々の代わりは何も無い。太陽が直接照りつけるから、土は乾いて喉も渇く。そのさらに外側にはたくさんの水がある。想像もつかないような大きな大きな水の塊。水は水同士で押し合いへし合いして、水と土の境界へと押し寄せる。そこでは水はやってきては去っていき、そのときにはなぜか木々が騒めくのと同じ音がする。君がその水に名前をつけて。そうしたら僕がその音に名前をつける。

この深い森に出口なんてないのかもしれない。歩いて歩いて、力尽きて、いよいよ諦めてしまったその数歩先が念願の森の出口だった、なんてことになるかもしれない。それでも今は歩くしかないのだ。それしかできることがないのだから。

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