なにを持って相手を知ったと言えるようになるか、というのは、そのひとしだいだ。という当たり前のことにふときがつく。強面の中年男性が甘いケーキを食べているとき、(偏見に基づいた発想だ、という自覚の有無はさておき)彼の"ほんとの"一面を垣間見た、と喜ぶひともいれば、てっぺんの苺を食べるタイミングやいかに美しい食べ方を実践しているか?で性格や育ちの良さ(あまり好きな言葉じゃない)を判断するひともいる。たとえばわたしだったら彼がケーキをフォークでつつきながら、「甘いもの、別に好きじゃないんだけど」などと言いはじめてからやっと興味がわくだろう。こういう、モノの見方のヒトとのちがいは映画を観ててもわからなくて(カメラを通した人間たちは監督のモノの見方、によって操られている。ひとりひとりの登場人物が、べつの監督によって演出されるようになったら可視化されうるかもしれない)お茶とかしてると唐突にふってくる。「つまらない世間話じゃなくて、相手の思想を知りたいの」とある子が言ったのをきいて、わたしの、存在することだけははっきりとしている旺盛な好奇心は、いったいなにに向けられたものなんだろう?とはっとした。だってわたしはひとを好きになったり嫌いになったり、ほとんどしない。冬なのにコートをきていないひとをみかけたら、目眩のするような好奇心がやってくるけど、寒さに強いひとがすきなわけじゃもちろんないし、まるで無思想でかまわない。あさ急いでて、とだけ答えてくれればわたしはゲラゲラわらって満足なのだ。そもそも誰かのことを理解するなんて、考えたこともなかった。建築物、や映画だって美しければ無思想でかまわないし、理解もいらない。しかも時によっては好きになったり嫌いになったりもする。もしや、わたしの無鉄砲な好奇心って、ひとに向けちゃだめなやつ?

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