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夜についての詩

 ひとのひふ、に触れたときの感覚は独特で、すべすべ、というよりはぬるぬる、とかぬめぬめ、とか。もちろん実際は、なめくじとかなめことかみたいに、ほんとにしめっているわけではないのだけどなぜだかそんな形容詞がしっくりくるような気がする。二人の天使が両端を掴んで司っている夜の帳は、まるでわたしたちが裸のままでねむろうとしている、川沿いの小さなマンションの周りだけをぐるりと囲んでいるみたいだった。もしわたしがこのひとを、このベッドのなかに置き去りにして、ちょっとコンビニかなんかへ出かければたちまち朝焼けなんかがみえたりして、雪見だいふくを二パック買った頃にはきっとすっかり太陽は南中してしまう。元きた道を急いで引き返しても、川沿いの、小さく可愛らしいマンションは見当たらなくてあなたの姿もない。なんてことが有りえそうだ。ヒーターの生温くて頼りない風や毛布のもあもあとしたやわらかい感触、そして焼きたての幸福なクッキーのような、あるいは太陽の光を浴びきった干したての真っ白いシーツのような、この男の子の首筋やおなかのあたりの香り、は確かにわたしの五感を刺激してやまない。しかし、やっぱりどこか現実じゃない場所にいるような感じがする。ゆめ。そう、夢を見ているみたい。


「ゆめ?」

と、男の子がきく。わたしはフワフワとした気持ちと、わらい声を抑えられない。ひとの体温は必ずいつも、こうもきもちがよくて、落ちつくものなのだろうか?三十六度。否、毛布とわたしのひふがあなたの熱を閉じ込めて、三十七度。湯たんぽみたいにしてあなたのこの温度をいつでも持ち歩けたらどんなに良いだろう?安心するとひとは笑うのだ、と太宰治が書いていた。だからわたしは急にじぶんが笑ってしまっても、そのことに罪悪感を抱いたり、俗っぽさを感じて落ち込んだりしないと決めている。人間、安心していられる時間なんて、長い長い人生のうちのほんの一瞬だろうから。

「そう、夢。もしくは綿菓子とか。食べようとすると無くなっちゃう」

「君のことも食べたらなくなっちゃうのかな」

と、彼はわたしの首筋にあまがみを。ヒャヒャヒャ、とわたしはなんとも可愛くないわらい声をふたたびあげる。あまい、と感心したように、わたしのために大げさに、その男の子はつぶやいてから暗闇のなか、この日何度目かの眠りに落ちてゆくのだった。


 さっきまで古い外国のコメディ映画を写してわたしたちの退屈さと気まずさを光の波長にのせてごまかしてくれていたはずの白い壁がいまやプロジェクターの設定画面を映しているのがまぶしくて、わたしは男の子の腕のなかで寝返りをこころみる。映画にでてくるのは、一人の女の子と二人の男の子。二人の男の子は親友同士だけれど、その女の子のことを同時に好きになってしまう。紳士同盟を結んだはずなのに二人共相手を出し抜いて女の子と仲良くなろうと必死なのが面白い。ハンサムなお調子者と、生真面目な優男、わたしだったらどっちを選ぶかしら、なんてつい考えてしまう。夜の帳の暗闇のなか、反射するかすかな光をあつめてわたしの視線はすぐ隣ですやすやと寝息を立てる寝顔を、スキャンするみたいに往復する。このひとがお調子者なのか、優男なのか、と断言してみたくなるけれど、すぐに無意味だと気がついてやめてしまった。だって彼のせいしつは置いておいたって、世の中の男の子はお調子者の優男ばっかりなのだ。そんなことよりも、改めてまじまじと顔、というものを見つめてみると眉毛って毛の集まりでできているんだわ。なんて当たり前のことを思わず考えて苦わらい。それに睫毛がまぶたを美しく放射状にふちどっていてハァ、と感嘆する。この人は泣くとき、どんなふうにこの貝殻の内側みたいにきれいなまぶたを揺らすのだろう。彼の透明ななみだが睫毛を伝った様子を写真に収めることができたら、それはきっとわたしにとってたいせつな御守りになるに違いない。この人のために神さまが彫刻刀でかたちづくったみたいな鼻は、もしわたしの身体がほこりみたいに小さくなったときに彼の鼻筋でスキーをしたい、という妄想と欲求をかりたてる。おまけに天使がキスをするために、そしてもちろん、彼からも天使へお返しのキスをするために存在するみたいなくちびる。やわやわとした食感がわたしのくちびるによみがえる。呼吸するための器官、しかも他人の、にばかみたいに感動することができる。自分がばかになっちゃったんじゃないかって心配になるほど。


 彼の双子のお兄さん。に、思いを馳せてみる。わたしがこうして彼の細胞のひとつひとつを愛しているとき、わたしは細胞コピーのお兄さん、のことも同時に愛していることになるはずなのだ。そう、映画の女の子はハンサムな男の子のほうを選ぶ。選ばれなかった優男は立派に二人を祝福してやるのだ。でもね、お兄さん。まだ見ぬお兄さん。わたしはあなたを選ばなかったわけじゃないし、それどころか心のおくのほうから、愛しているの。まだあなたたちがひとつの細胞だった頃、のその細胞、をわたしはイデアと呼びましょう。空気をはんぶんにしても温度は半分にならないみたいに。わたしが、わたしの隣で寝ているこの一塊のどうぶつを抱きしめているとき、わたしはお兄さん、あなたを抱きしめることになる。そしてあなたたち二人をこの世に生み出した神さまも。わたしは簡単に抱きしめることができるのだ。


夜の帳の端と端、がわたしたちの部屋の周りをぐるりと一周してまた出会う。夜の帳を司る二人の天使は双子の天使。神さまがわたしたちを抱きしめるために地上におくった二人の天使は裸でねむるわたしたちを抱きしめる。わたしたちはすっかり安心して、げらげら笑いながらねむる。

💙