femme fatale

「誰とでも、こういうことするの?」

深夜と呼べる時刻。カチカチと値段を刻むメーターが光るタクシーの後部座席。運転手に聞かれたら不味いぞ、というような判断ができない、が、そのこと自体は何故か自覚できる。酩酊感が気持ち悪い、と心地良い、の間をメトロノームのように行ったり来たりする。都会の光が窓を掠めていくのが妙に綺麗。膝のうえに頭をのっけて目を瞑る、初対面のはずの女の子、のうすい肩を撫でながら問うてみる。控えめな重みが愛らしい。うえの名前さえまだ知らない。したの名前はミチルちゃん。つい1時間前までは宴会の席で、男たちにミッちゃん、ミッちゃん、と呼ばれてニコニコしていた。

ウウゥン、と、肯定とも否定ともとれぬ小さな呻き声をあげて、目を瞑ったまま、ミチルは右手で僕の左手を探しだし、指をからめた。無表情の運転手の横顔を盗みみる。握りかえす。ミチルの手のやわらかな感触が僕の手から心臓や胃を経由して、腰を伝ってあしさきまで届くような気がした。異性と、ましてや出会ったばかりの、と一晩過ごす機会を得て喜ぶような柄でも、年齢でもないし、御身分でもない。後悔、の2文字は彼女と同じタクシーに乗り込んだ瞬間から脳に蔓延している。男たちが"ミッちゃん"を紹介して形容した「魔性」の2文字も脳裏に浮かぶ。平穏な人生を願ってやまない自分にはもっとも縁遠いタイプの子。一体どうして、よりによって僕のタクシーに乗り込んできたんだよ、と揺すって起こしたくなる。いや、そもそも別に家に連れ帰って、ただ親切にベッドを貸してやればいいだけなのだ。相手も酔って気紛れで甘えているだけなのだ。キシキシと痛む頭に残った理性はこんなにも正常に働いている。そのはずなのに、自身の身体は未だ何かを期待しているのがわかる。フロントガラスが見慣れた景色を映し出すと冷や汗をかいていることに気がついた。


熱いシャワーが身体の隅々に張り巡らされた欲望と冷や汗を、酔いと共に洗い流してくれるようだった。排水溝がじゅるじゅると音を立てるのがやけに耳に残る。火照りと水滴をタオルで吸い、下着を履いてから部屋を覗くと、さきにシャワーを浴びおえたミチルがベッドに横になり、オレンジ色の間接照明に照らされていた。貸したLサイズのTシャツが彼女の身体をすっぽりと包んでいる。鼓動が早まるのを感じる。草食動物に狙いを定める肉食獣のように。おかしい。あっちにいるのがライオンで、僕がシカのはずじゃなかったか。

「寒くない?」

「ウン」

問うと、寝たまま顔をこちらに向けて微笑を作った。彼女の顔をよくみるためには暗すぎるな、と目を凝らすと、両手をこちらに伸ばしてきた。蜘蛛の巣に捕えられるみたいにあっけなく、僕は彼女の腕のなかに転がり込む。急に近づく顔と顔。同じ石鹸を使ったはずなのに、彼女からは甘く深い香りが漂う。上質な布みたいな髪の毛がさらさらと揺れ動く。熱が向こうからこちらに、こちらから向こうに移動する。肌と肌がじりじりと薬品でも使っているみたいに、痛いぐらいに反応しあう。


「ねえ、わたし、誰とでもこういうことするわけじゃないって証明できますよ」

器用に僕の左手を腕枕にして、ミチルは口を開いた。揶揄うような口調。愉しげな表情、もぼやけるほど、息と息が触れ合うような距離。睫毛が長くて可愛いな、と思う。

「証明?」

「そう、証明。わたしたち、一晩なにもしないで過ごすの」

「なにもしないって……」

真剣な顔をして、キスの息継ぎでもするみたいな近さで、そんなことを言われても、すでにふたりは狭い布団のなかで緩く抱き合っている。

「キスも?」

右手でぎゅ、とミチルの腰を抱くと、そわそわと動いてから、左腕で抱きかえしてくる。

「キスも駄目。わたし、あなたのことを好きになりそうだから、ちゃんと仲良くなってからする」

「好きに?」

なりそう?嬉しくないわけはない、が、可笑しく思って目を見ると、ふっと逸らされた。瞳に映っていたはずのなにかを逃すまいと、今度は脚をからめとると、きゅ、と相手の下半身に力がはいったのがわかる。

「手、繋いで寝てくれたら好きになる」

耳に寄せられた小さい口から鼓膜に直接届けられる音。女の子はいつこんな風に、普段はださない甘い声をだすやり方を覚えるのだろう。ついさっきまで、居酒屋の雑音のなかで、大勢のうちのひとりにすぎなかった人間が、こうして腕のなかであたたかなおもりになっているのが不思議だ。手を繋いで眠る。なにもせず。森の巣穴で身を寄せ合って眠る神聖な2匹の狐を思い浮かべる。


「いいよ」

と、背中にまわされた彼女の細い左手首をつかまえて、口元へ運んで舌で舐める。無味、と感じると同時にさっきよりもまたすこし甘い声が、あ、と短くあがる。

「キスは駄目だけど、舐めるのはいいでしょ?」

んん、と短く肯定するのでペロペロと、今度は指を舌で丁寧に撫でてやると、はぁ、という溜息をつく。すると今度は、こちらが油断した隙に首筋を甘噛みされる。思わず声をだすと、さらにぺろぺろと舐められる。仕返しに、さっきよりもさらに強く脚をぐっと絡めてやる。潤んだ瞳と目が合う。

「さっき、あいつらに魔性の女って言われて、興奮してた?」

口をついた言葉を自分で聞いて、嫉妬心と加虐心が自分のなかで混ざりあっていることに気がつく。この子は、あの飲み会にいた男たち全員とこういうことをしてるんじゃないだろうか、という疑問がふと沸き起こった。そうだとしたら嫌だなと思った。ミチルはいやいや、というように首をふる。背中を指先でなぞると連動してるみたいに、ゆらゆらと腰を動かす。

「違うの?」

「違う……ねえ、ごめんなさい、したいです」

彼女は腰を動かしたまま、観念したような、泣きだしそうな声でおねだりした。おそらく紅潮しているであろう顔。閉じきらない口と、とろんとした目。オレンジ色のライトがぼんやりと照らす。可愛い。

「駄目。ちゃんと一晩我慢して。好きって証明して」

僕はなんとしても彼女の愛の証明が欲しくなったのだ。彼女は素直で、コクコクと2度も頷いて、だんだんと全身の力を抜いた。たちまちTシャツも、皮膚と皮膚も、ふたりを隔てるすべての物質が消えてなくなってひとかたまりの液体になったみたいに、しかしゆっくりと眠りに落ちた。暗闇で、2匹の黒猫が身を寄せ合ってたったひとつの黒い獣になったみたいによく眠った。

💙