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メンヘラと永劫回帰|寝る前にだけ読んでほしい

私が私を認識するのは、基本的に夜が深く深くなってからだ。

色々な創作活動(と言っていいかどうか分からないレベルだが)を始めてから、なんでもそう。
文章を書くのも、本を読みたいと思うのも、色々なことに考えを巡らせるのも、死にたくなるのも。

ある哲学者は、永劫回帰が存在すると言った。
今私が認識するすべては、「私」としてこの世に生まれて初めて見るものだけれど、本当はもう何度も何度も見た景色なのだろうか。私にとって夜を知っていることは当たり前だが、もし仮に本当に永劫回帰するのなら、私は本当にこれをまた繰り返すのだろうか。

無限なのは時間だけであって、今目に見えるもの、触れられるものすべては小さな小さな分子の塊に過ぎない。死んだらそれらはすべて灰となり、塵となり、土に還る。そして土もまた、何某かの理由ですべて無くなり、消え去り、そしてまた何某かの理由で生まれてくる。
本当にこの仮説が正しいとするのなら、私はなんて幸せなんだろうとたまに思う。

私にとっての永劫回帰がどんなものなのか記録するに当たり、この仮説が正しいということで一旦話を進めよう。

私は恋人に抱きしめられたとき、繋がったとき、
「ああ、このままどろどろに溶けて私という境界線が無くなって、この人の一部になってしまえたらいいのに」
とよく思っていた。

この世にあるすべてをただの分子とみなすのであれば、すべての分子たちには、過去が存在するのではないかと思う。時間の中にただ漂う分子たち、それがくっついて大きくなって生まれて、それを幾度も繰り返してきた。
ただ、くっついた分子たちは過去とまったく同じ形で、同じ分子とくっついているのだろうか。ただの分子であり、そこに意識や記憶が存在しないなら別にどの分子だっていいはずだ。

そう考えると、今の「私」を構成する分子は、元は別の何かだったんじゃないだろうか。別の人だったのか、果物だったのか、植物だったのか、土だったのか。
ということは、私という存在は世界のすべてであり、世界のすべては私かもしれない。
「私」の前の「私」を構成していた分子は世界中どこかに分散されていて、逆に世界中から今の「私」を構成した分子たちがくっついて今がある。

ここからはただの私の願いだが、もしそれが今私の愛する人に一部だけでも組み込まれているとしたら、それはもう私の願いが叶ったのと同然なのではないか。そう考えると嬉しくてたまらないのだ。

きっとニーチェはこんなメンヘラに向けてこの思想を定義したわけではないのだろうから、ちょっとだけ申し訳なく思う。ごめんなさい。
でも願うだけなら、想像するだけならタダだし許してくれ。

さあ、こんな小っ恥ずかしい妄想を垂れ流すのはそろそろ辞めて布団に入ろう。明日はどうやら雪が降るようだ。

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