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自己中心主義は身を守る

環境と考えについて

私は恵まれた環境にあると思っている。

今現在病により休職しているが、その休職を許してくれた会社があり、同僚があり、サポートしてくれる人がいる。いつかの記事でも書いたかと思うが、そのすべてに感謝の気持ちを忘れないというのが私の大切にしている思いだ。

これは休職ということだけに限らず、例えば仕事の失敗や人間関係での躓きに対しても思う。それを経験したことによって学べることがあるからだ(勿論、不要な経験もあったとは内省している)。

そんなことを考えて日々過ごしているが、そこまで思考出来ない波が来る。それは私の病が大きな原因なのだが、完璧主義という性格が大きく影響している。だから例えば私と似たような考えをお持ちの方や、まあそれ意外の方でもそんな瞬間が訪れる時があると思っている。

考えを綴る前に

こんな日はないだろうか。
何もないのに気持ちが沈む。
些細なことで苛々する。
なんだか落ち着きがない。
私はよくある。まあ、私の場合はそれは病の一部だからしょうがない。大抵そういうときは身体が休息を欲しているときだ。

私自身を例えに出すと、朝起きたときに何もやる気が起きない、とすぐ直感する日がある。これは躁うつの「うつ」のときによく現れる症状で「躁」のときの跳ね上がりが大きければ大きいだけ沈むときの波も大きい。こういう病気であるからしょうがないと理屈では分かっているものの、何も出来ない自分を責めたり短絡的に物事を考えて絶望したりしては、勝手に自滅する。
深く沈んでいればいるほど視野も狭くなるので冷静なときだけにしか考えられないのだが、その私の絶望の根底には「"他者と比べて"何故私はこんなにも駄目な人間なんだろう」というものがある。然し他者と比べる必要など何処にも無い。そんなありきたりなことをつらつらと書いているだけの記事かとページを閉じる方がそろそろ出てくるだろうから、何故他者と比べる必要がないのか、前置きは長くなったが、今日、その理由について納得いく答えに巡り合う事が出来たので是非最後まで目を通して頂きたい。

他者と比べる必要がない理由

私は自己中心的な人間が大嫌いだ。では何故自己中心的な考え方が身を守ると感じたのか。それは自己中心的な考え方が「人間の最終地点」になると感じたからだ。

私は完璧主義であるために、自分でOKを出せるハードルを勝手に高くしてしまう。その結果、無理矢理完成させたものに納得出来ず悶々とするか何も生みだせないという事実が生まれ、それを強く肯定する自分に苦しむ。例えばこのnoteで言えば1日前、1週間前、1ヶ月前に書いた自分の記事は、当時は100点満点で書いた文章だったとしても、今見返すと内容が薄っぺらく感じたりする。素晴らしいと思う文章に出会ったときなど尚更だ。然しそれは何年も前の自分を振り返って未熟だったと恥じていることと同義なのだ。私は人を惹きつける文章が書けるようになりたいという気持ちで文章を書くことや読むことを続けているから、毎日学習して成長していて当然であるのに今の自分を昔の自分や他者と比べて恥じている。今まで以上を求めて頭を抱えることは良くても、比べて自己嫌悪することは全く以て意味の無い苦しみである。

だが文章を書こうと決断したのは私自身。注目すべきはここだ。
「環境と考えについて」で私は今の環境を作り出してくれた他者への感謝を忘れないことを大切にしていると語ったが、では休職するという決断をしたのは誰か?失敗するかもしれないことに挑む選択をしたのは誰か?それは紛れもない私自身だ。そのことに私はずっと気が付かないでいた。勿論他者の支えに感謝をすることを大事にするという気持ちは変わらないが、その前に私の今の環境を作ったのは、選択して、決断した私自身であった。

自己と他者というのは、交わっているようで交わっていない。実はきちんと境界線がある。文章を書くときも、他者の書いた文章に触れることで感銘を受けたりそれを取り入れたりすることもあるが、実際に自らの手で綴った文章は私の文章である。他も同じで他者に影響を受けることはあれど、生み出された環境下で選択したり決断したりするのは必ず自分であって、これは普遍的な真理ではないだろうか。それが良い方向に向くか、将亦逆かは自分との闘いというだけだ。

人は他者という存在があって自己を認識出来るけれども、自己の中に他者の意識までは介入し得ない。あるのは自己という意識だけ。要するに、自己と他者というのは永遠に交わることの出来ないもので、自分という世界の中に二番目=他者は存在しないのだ。だから他者と比較するなど、そもそもが筋違いな話なのである。

自己中心主義による自己防衛

そうなると自己というのは、矛と盾を同時に持ち合わせているようなものだと感じる。矛は先程述べた良い方向に向くか否かという「選択と決断」。そして盾になるのは「その選択と決断を許容することが出来る」という点だ。人は自分の選択と決断で今を創ることは出来るけれど、それに伴って生まれる感情がある。感情というのは厄介なもので、矛の動きを鈍らせる。しかしその分、感情を上手く利用して自分を守るということも亦可能なのである。そこで自分を守る際に必要な考え方こそが、自己中心的な考え方だ。感情というのは厄介なものだが、味方につけてしまえば驚く間に自分を守る盾へと変貌する。

話は少し飛躍するが、人が感じるストレスは2種類に分けることが出来る。その種類の違いは「自らでコントロール出来るストレスかどうか」という点だ。例えば職場で感じるストレス、人間関係や仕事に対する不平不満。これは、自分ではどうにも出来ないストレスだ。対して自分でコントロール出来るストレスというのは、身近なもので言えばホラー映画を見たときの感覚に近い。ホラー映画というのは不思議なもので、本来恐怖という感情は出来れば感じたくない感情のはずであるにも関わらず、ホラーというジャンルが確立されている以上、一定数の人には観られているということだ。何故ホラーいうジャンルが確立されているのか。それはあくまで「物語」であって、自分には降り注ぐことのない安全な場所からそれを覗いているだけなのだ。そして物語が終わって「ああ怖かった」と現実に帰ってきて安心する。これが所謂「コントロール出来るストレス」である。コントロール出来るストレスというのは、何処ぞの大学の研究(たしか米国の大学であったが、忘れた)で健康に良いものだという証明も成されている。

文章を書くと決断したこと。休職すると決断したこと。今まで「享受していた」と思っていたものを「自分自身の権限によって勝ち取った」と見方を変えることによって、不思議とストレスは一気に軽減するのだ。その少しの違いによって精神の安定が保たれるならば、自己中心主義というものはある種の自己防衛だと言えるだろう。
そしてその自己防衛は先程の「選択と決断を許容すること」に繋がる。自分の価値観、人生、自分自身を守ってやれるのは自分だけなのだ。結局、これが人間の辿り着く生きにくい世の中で自分自身を守るための最終地点なのではないだろうか。

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