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干渉されるのが苦手。

干渉との上手い付き合い方が、ずっとわからないままだ。

思考がぐるぐると同じ道筋をなぞっているので、答えは見えていないが書き進めてみる。

年末、遠方の田舎のため年に1度しか会えない父方の祖母宅で1週間過ごした。

「あとで後悔しないように、元気に会える機会は逃さないようにしよう」という気持ちに隠れて、裏では常に「しんどい」という感情が、バックグラウンド再生のように存在する。

食事を見守られて、「あれも食べない?」「これも食べる?」と話しかけられる。
食べ盛りの学生でもなく、大食漢でもなく、小柄な体型に比例してか食が細めの大人である私は、毎日、毎食ごとにセールスを断り続けているような気持ちになる。

お腹がいっぱいだと伝えると、「えー!これだけしか食べてないのに!」と言われる。
私だって胃腸がまだまだ働けるならもっと食べたいのに、消化能力の低い自分が否定されているような気持ちになる。

買い出しで「いらない」と言ったものが購入されていて、「食べて」と出てくる。
ここまで書いてきて思ったが、この環境では「食事の量」が評価軸になる。その評価軸では弱小で、期待に応えられない自分に自己肯定感が下がっているのかもしれない。

美味しいと言うと「もっと買えばよかったね」と言われる。
目的は美味しいという感情の共有であり、追加要請ではない。前述の通り、私にとっては美味しい=もっと食べたいではないのだ。どれだけ美味しくても、大量に消化する能力がないので。
このコミュニケーションのずれが気持ち悪くて、美味しくても美味しいと言えなくなってしまった。

扉を開く音がすると出てきて「何がいる?」と声をかけられる。パンを焼けば「焦げてるよ!」と呼び立てられる(私の基準では全く焦げていない)。
自分ペースでなく相手ペースになってしまうのが嫌なのかもしれない。

「かわいそうに」「できなくてごめんね」など、他人下げ・自分下げが多い。
好きでやってることを自分の尺度でかわいそう認定される。逆に、ありがとうと言うと「そんなこと言わないで」と言われる。ネガティブなワードが多いコミュニケーションは気分も下がってしまう。

何となく、ミスマッチの理由がわかってきた。
祖母も私も、相手の期待に応えられているかが自己肯定感につながっていそう(自分軸ではなく、他人軸)。

祖母が期待されていると思っていること:「客人が座ってるだけでいいくらいもてなすこと」「日常の我慢を解き放ち、贅沢させること」
私が期待していること:自分のペースで暮らしたい。それなりの都会から、何もない田舎に来るだけで非日常。

私が期待されていると思っていること:「たくさん食べること」
祖母が(おそらく)期待していること:こんな遠方の何もない田舎にわざわざ来てくれているからには、楽しんでほしい

ここで根本的なズレとなっているのは"何もない田舎"の捉え方だろう。
私:"何もない田舎"自体に価値を感じている
祖母:"何もない田舎"を無価値に感じている(だから、他部分で付加価値が必要)

さっきまで、「干渉したい人」と「されたくない人」ってもう相容れないものだし、我慢するしかないかなと思っていたが、次の機会があればできそうなことも少しだけ見えてきた。

・それなりの都会から見たら、田舎のスローライフも貴重であることを伝える
・自分のペースで暮らすことが、私の幸せなのだと伝える

「干渉されて嫌だな」の状態って、"自分の物差し"と"相手の物差し"の違いをすり合わせられなくて起こるのかもしれないな。今回で言うと、自分の幸せの基準を相手の物差しで測られるとか。

本当にどうでもいい相手なら距離を置けばいいだけだけど、自分が「関係をどうにかしたい」と望む相手なら、「あなたのとは全然違うけど、私の物差しはこんなだよ」って見せあうのが第一歩なのかもしれない。
(それでお互いの物差しを尊重して折り合いをつけられたらいいし、一方が頑なで交渉の余地なしの状態が過干渉なのかも)

祖母の価値観は、私の価値観の何倍もの時間をかけて作られてきたものだから、そう簡単に受け入れてはくれないかもしれない。

それでも、「あとで後悔しないように、元気に会える機会は逃さないようにしよう」と「楽しい」を共存させるためにできることをしていくのだ。

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