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私と摂食障害①

今回からは、私が摂食障害になったきっかけ、全盛期、そして今を書いて行こうと思う。

まず、私の摂食障害の直接のきっかけとなったのは、ダイエットだ。
他にも、家族との確執や過去の傷つき体験等の諸問題も原因のひとつではあるとは思っているものの、直接のトリガーとなったのは、私の場合ダイエットだった。

まず最初にダイエットを始めたのが、高校一年生の頃。
その頃の体重は詳しくは覚えてないけれど、少なくとも今現在より軽かったことは覚えている。
その頃私が行っていたのは、お菓子禁止ダイエット。
そのダイエット自体は上手くいって、今思うとその頃が私が一番輝いていた頃だったと自負している。
ただ、その時の自分に一言言いたい。
「食べ吐きだけは手を出すな」と。
折角、その頃の私は底辺高校の中で、ではあるものの成績優秀者に選ばれる程学業にきちんと専念出来ていたのだから、余計なことはしないでほしかった。
ただ、幸いとか、その頃は食べ吐きを何度か行ううちに、食べ吐きによる弊害をネットで見てやめることが出来ていた。
問題は、高校二年生の冬頃だ。

高校一年生の頃のダイエットは、食べ吐きを辞めたことでなし崩し的に消滅していった。
ただ、高校二年生の冬、忘れもしない部活関連で他校の人と打ち上げに行ったあの日の帰り、食べ吐きを何故か再度行ってしまった。
過去に戻れるなら言いたい。
「何故やる💢」と。
その日から、私は摂食沼にずぶずぶとはまっていった。

まず、最初はただ単に、“1日のうち夕食だけ吐く”とか、“昼食だけ吐く”とか、(それでも十分やばいけれど)自分のコントロールの範疇で吐いたり吐かなかったりを繰り返していた。
ただ、もちろんそこで収まるなんてことはなく、どんどんとそれ(食べ吐き)はエスカレートしていき、最終的に3食全て食べたら吐く、みたいな生活を送っていた。
その最中にあった修学旅行は、地獄だった。
食べなければいけない、でも食べたら吐きたくなる、でも皆(他生徒)の手前吐けない…ということばかり考えていて、正直心から楽しむことが出来なかった。

その頃、高校の保健室の前の健康コーナー的な場所に、体重計が置いてあった。
私はそこに足繁く、毎日毎日、酷いと部活の個人練習の合間にも測りにいっていた。
今思うと、いそいそと昼休みの度そこに現れ、制服のブレザーをわざわざ脱いでまで正確な数字を出そうとする姿は、異様だったと思う。
しかし、その頃はそんなこと気にもとめず、毎日毎日測り続けては、そこに現れる数字という結果に一喜一憂していた。

その数字が、摂食沼にはまる前の数字より10kg近く下回るようになった頃、あまりにも体重の減りが急すぎること、当時家族との関係もかなり悪化していたことから、児童思春期病棟のある精神科病院に入院することとなった。

入院中、その病院は特殊な病院で、病棟にいながら学校に通える(勿論、病状によるが)という病院だったため、高校三年生の一年間をその病棟で過ごした。

入院生活が始まってから、むしろ私の体重は面白いようにスルスル落ちていき、ついに自己最低体重(自己最高体重から20kg以上下回っていた)をたたき出した。
その頃の私の食生活は、かなり酷かった。

朝 パックジュース半分
昼 パン半分やウイダーインゼリーなどを口にはするが、その後吐く
夜 かろうじて(ルールだったため)きちんと食べるが、その後大抵吐く

みたいな生活をしていた。
要するに、ほぼ液体のみの生活をしていたのである。

この頃のエピソードで印象に残っているのが一つあるため、それをここで紹介しようと思う。

入院生活が始まって一ヶ月ほど経ったある日、校外学習で某夢の国へ行くこととなった。
ただ、私の脳内は「夢の国に来た日くらい食べてもいいや」とはならず、「夢の国だろうがなんだろうがいかに許可食以外食べずに過ごせるか」ということでいっぱいだった。
そんな私がとった奇行が、“クッキーサンドアイスの、アイスの部分だけ食べて残りのクッキーは捨てる”という行動だ。
今思うと相当脳の栄養が足りてないな、と思えるが当時はそんなこと微塵も思いもせず、“このクッキーを食べてしまったら私は太る”と大真面目に思っていたのである。

今述べたエピソードにあるように、当時の私はいかに栄養をとらないか、ということに必死だった。

こんなことをしていた私が、今障がい者グループホームでとはいえ、一人暮らしが送れているのは、当時の病棟Nsや主治医、病棟内の他患者等の支えがあったこと、“体重を減らそうが増やそうが、変わらず接してくれる人はいるということ”、“私の居場所はちゃんとあるということ”を病棟内で学べたことが大きい。

正直、入院生活を送るまで、支援者は都度都度いたし、安心出来る場所もなくはなかったものの、ベースである帰る家が安心して過ごせる場ではなかった。
しかし、入院生活の中で、心の安全基地を育むことが出来たのではないかな、と今振り返ると思う。

長くなったが、この入院生活を経て、私は地元から隣県へと拠点を移していく。
この後の話(全盛期から抜けだしての今について)は、また次の記事で書こうと思う。

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