見出し画像

12畳の独房

日用品の買い物は某量販店のネット注文でほとんど済ませるようになった。

なんせボールペン1本、消しゴム1個でも送料が無料、在庫があれば翌日届く。なんと便利で太っ腹なことか。梱包材だけでも赤字になってしまうのではと心配になる。

持って帰るには妙に重いシャンプー、気付いたらなくなっている歯間ブラシ、薬局に入ると忘れてしまうコットン、男性の店員さんだったらなんとなく恥ずかしいなと思ってしまう生理用品。ほかにもあれやこれや細々したものを理由をつけてはカートに放り込む。流石に数百円の買い物では気が引けるので読みたいと思っていた本なども追加して多少の体裁を整えて注文を確定させる。往復の時間を取られることもなければ、荷物を持つ必要もない。つい買いすぎることもなければ寄り道することもない。効率的でつまらない買い物。まるで私の生活を象徴するかのようである。

私の生活は単調だ。平日は仕事から帰ってくると最低限の家事をして22時くらいに眠る。土日も平日と同じ時間に起床して、たった12畳しかない部屋の掃除や気まぐれな読書をして1日を終わらせ、同じく22時くらいに眠る。外出はほとんどしない。食事にもこだわりがなく、カレーをどっさり作り一週間のお弁当は毎日火を入れ直して持っていく、というのが月の半分を占める。(月の半分は違うものを食べたほうがいいような気がしてそうするようになった)

要は生活のうちに楽しいと思える要素や変化がないわけだが、一番問題なのは、何かを楽しみたいという気力がないことである。生きた活動をしていいのだという思考に至らないわけである。

「どうか子供たちに、本当の罰は心と記憶に下されると伝えてください。飲み込んだ罪は魂を蝕み、やがてその身体さえ、命さえ食い尽くす。どうかその前に、どうか親たちに伝えてください」

私が何度も観たドラマのセリフであるが、これを何度噛み締めたとて、もう遅い。それでも生きていくならば、こうして塞いでいても何にもならない。どうせ生きるなら。理解はできても、心がちっとも追い付かない。

友人が「そうやっていても許されるわけではないよ」と言ってくれたことがある。こうして仕事以外引きこもりがちな私を買い物やご飯に連れ出してくれた大切な友人だ。厳しい言葉に聞こえる、これ以上ない優しい言葉。私はこの言葉のおかげで、たまには家でなく近所のタリーズで読書をしてみようかという気持ちになれたり、立ち寄ったスーパーでぶどうを買ってみるかという気持ちになれたりしている。(私にとってフルーツは食事に不要な嗜好品の扱いである)

これがだんだんと「映画や美術館に行ってもいいんだと思えるようになることを望んでもいい」と思う日が来るのだろうか。生きた活動をしてもいいのかもしれないと思う日が。

今日もベッドの中。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?