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【看取り日記04】自宅介護2日目〜亡くなる3日前まで

56歳の母を30歳で看取りました。
発見した時には末期がん、2年前からはじまった延命治療。
2023年8月中旬に緊急手術、余命宣告。

手術から看取りまで約3週間の出来事をまとめています。

今回の内容:自宅介護2日目〜亡くなる3日前まで

看取り日記01▼

前回のお話▼


自宅介護2日目(2023/8/26 土曜日)

この日は大切な友人の結婚式でした。
前日母の余命宣告をされてはいますが、この結婚式も一生に一度。結婚式に笑顔で参加することを決めていました。

前日は実家では無く、結婚式場にまだ近い自宅へ戻り
結婚式後は夫に送ってもらい直ぐに帰る計画でした。

結婚式は本当によく、イベントも盛りだくさんで、友人がとても幸せそうだったのが本当に嬉しかったです。
幸せになってね。ずっと幸せでいてね。

目が少し腫れていましたが一応バレなかったです。
友人の旦那さんの友人に可愛い子という名前で呼ばれてたらしい。なにそれ笑えるけど嬉しい笑

めっちゃ後日談だけど、この結婚式をした友人に
「実はね、結婚式前日に余命宣言されてて結構メンタル来てたり、目が腫れてたのよ〜。写真に残っちゃったね」
と伝えたら
「だからいつもよりちょっとだけテンション低かったんだね」
と言われました。
気づかれてたんか。

友人とは色々似ており
・専門学生からの友人(10年近い友人)
・結婚記念日が近い(1ヶ月以内)
・結婚式がわたしの翌月に行われた
・同時期に祖母を亡くしている
など色々重なっておりました。

母の話をした時も泣きながら話を聞いてくれて、尚且つそこまで話を広げず、聞くことに専念してくれました。
優しい友人です。本当にずっと幸せでいてね。

・・・

そんな素敵な結婚式後、急いで旦那を連れ実家へ帰宅しました。
帰る時もずっと不安でした。

自宅に帰ると母はベッドに横になっておりました。
話を聞けばマグミットにて便がゆるゆるで大変だそうです。
でも伯母に連れられ車椅子でトイレに行っておりました。

その日から母とずっと一緒の生活をしています。
日中は在宅勤務。同じ空間で仕事をし、夜は交代制で見守りました。
夜のシフトは
私:21:00〜2:00
伯母:2:00〜7:00
のローテをずっとしておりました。

伯母は叔母でうつ病で不眠症なためこの時間配分でやっておりました。

そう入っても母と同じ部屋にいるだけで寝れるように努力はしておりました。
伯母も同時期繁忙期なため介護をした後日中は仕事に出ていたのできつかったと思います。

自宅介護3日目(2023/8/27 日曜日)

伯母はこの日も休みをとってくれました。
忙しいのにありがとうね。

私はほぼ初めての介護デー。
とにかく氷を食べたがったり、梨などよく食べました。
氷は本当によく食べた。喉乾いてたのかな。

日中に昼寝ができたり比較的穏やかだったかなと思います。
トイレの介助をしたり、簡単なものを食べさせたり、ちょっと話をしたりとゆったりとした時間を過ごしました。

・・・

この時の母はまだ一人でベッドから起き上がることができました。
寝ていることが難しく、なんだか起き上がっていました。
そのあとは直ぐに疲れて横になるというのを意識がなくなる時までずっと続きました。
「身の置きどころがない」は本当にその人にしかわからない感情だなと感じました。
私は怪我をしてほしくないから寝てて欲しかったです。
起き上がっても「ガクン」と力が抜けて倒れ込みそうになるということがとにかく多かったので、安静にして欲しいというのが私の希望です。

ですが、死にゆく母が起きていたかったのならそれの手伝いをし続けるべきだったかなとも思います。

それもまあまあキツいので、介護者も倒れないように付き合うべきなんですけどね。
訪問看護さんからも自分の体を大切にしてねと言われ続けましたが、介護している最中、
そしてもう直ぐ亡くなると思うとなんでもしてあげたくなって無理をしてしまうんですよね。
その後私も限界が来た瞬間がありあました。
今でもその瞬間を後悔しております。
ほんのちょっとのことなんですけどね。

自宅介護4日目〜(2023/8/28 月曜日〜)

訪問看護さんが来てくれる日です。
今の所、月曜日と木曜日に来てくれる予定でした。

訪問看護さんは
・腎ろうの傷口の消毒
・入浴介助
→母はお風呂に入ることより体を拭いてもらうことがほぼでした。
などを3時間くらいかけてやってくれました。

大体訪問看護さんは9:00〜12:00まで。
母の介護にあたり、訪問介護さんに一番感謝しております。
本当に優しい方で、親身になってくれました。
そして一番頼りになりました笑

月木だけの予定でしたが亡くなるまでほぼ毎日来てくれました。
本当すごいよ。

・・・

パルスオキシメーターで測った際、90を切っていたと思います。
その報告が終わった直ぐに酸素の機械がうちに来ました。
鼻に簡単なチューブを入れるのですが、よく取りたがっていました。
鼻を触ると冷たかったので嫌だったのかな?
それとも延命が嫌だったのかな?とも思います。

・・・

ほぼ毎日薬局へ行きました。
新しい薬を処方されて、急いで取りに行くという生活を毎日ました。

自宅介護6日目〜(2023/8/30 水曜日〜)

この日というか夜中から母の体調はガクンと悪くなっていきます。
とにかく寝ない!
起き上がっては横になる。ただ自力では起きれないので介助しながら起き上がるということを日中〜夜中まで永遠と行っていました。
私たちも寝れないし、だからと言って無視もできない。
必死に介護を続きました。

電話で訪問看護さんに相談したら「オプソを飲ませてあげて」とのことでした。
オプソは訪問診療の際詳報してもらった薬で、時々飲んでいたのですが「4時間空けて処方して」と教えてもらっていました。
最初は飲んだら眠ってくれたのですが、どんどん間隔も短くなり
早く4時間経ってくれと祈るようになりました。

電話で4時間経ってなくてもいいから飲ませて落ち着かせてあげてともらい、だんだんオプソの感覚が短くなっていきました。

・・・

母は元気な時から足をたて膝で寝ることが多く、好きだったのだと思います。
そのため介護が始まってからも立膝をしていることが多かったです。
ですが、力も抜けてしまうので「ガクン」と崩れることが多く
眠ろうとしているのにその衝撃で起きてしまうということがずっと続きます。

足を伸ばしても立膝になってしまうので、クッションとかでどうにか支えを作りながら対応していきました。

・・・

31日の朝には訪問看護さんが様子を見に来てくれました。
その時「会いたい人には今会ってね」「会話ができるのは今週までだと思う」と言われました。

母は病気のことを誰にも言わなかったです。親戚にも仲のいい友人にも。
誰にも言いたくないというのが母の希望でした。

ですが、この時私は2人だけ連絡をとりました。
母のLINEに「最近どう?大丈夫?」と連絡が入っていた方だけに現状を伝えました。
1人には今週ならまだ喋れるからよかったら会いに来てくださいとも伝えました。
この判断を母は嬉しくなかったと思います。
誰かに会いたい?と少し前に聞いた時「誰にも会いたくない」と言っていたから。

でも私は何も知らずに残される人の気持ちも優先してしましました。
その人は母が一番苦しがっている時に会うことになってしまいました。
嫌な記憶になっちゃったかな。

正直介護をしている時はメモなど取っていなかったし、毎日がいっぱいいっぱいだったのでもうあやふやな記憶で日記を書いています。その時書けばよかったな〜という気持ちと、今だから書けるという気持ちがあります。思い出せることは鮮明に覚えているから、その気持ちを忘れないようにこれから生きていきたいな。

あと思い出しながら書いてもちょっと泣きそうになる。
記憶ってすごい。

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