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「2024年1月の珈琲 Myanmar:風をこの手に」

清々しいほどに混じりっけのない香ばしい甘さに、手元から凧までピンと張った糸のような、しかも、その糸にぐいぐいと伝わる風を手に握っているかのような感覚を覚えた。

Myanmar:風をこの手に
ぐいぐいと糸は伸び
凧は頭上へと舞い上がった
この手につかんでいるのは
はるか彼方の風のゆくえ
雲を突き抜け
右へ左へ大空をかけめぐる
香ばしい甘さが風に乗っていく

そういえば、長い間、凧を揚げている姿を見かけていない。

Myanmarの珈琲を飲んだとき、そんなことを思った。

Myanmarの珈琲豆を焙煎したのは初めてだ。

年に一度開催される大規模なコーヒーイベントで試飲したMyanmarの珈琲がおいしくて、これは焙煎してみたいと生豆を仕入れたのは、昨年11月のことだったか。

翌月には焙煎しようと考えていたけれど、12月に開催したコラボイベントで用意するブレンドコーヒーを作るにはMyanmarではない気がして、焙煎を保留したのだった。

年が明けて2024年。

テスト焙煎したMyanmarの珈琲に凧揚げを思ったのは、その香ばしさからだった。

豆を煎っているのだから珈琲の味わいは香ばしいのが当たり前かと思いきや、一概にそうとは言えない。

いろんな珈琲豆が生産されている今、その味わいは幅広い。

香ばしさよりも先に感じる味わいがあれば、舌の感覚はそっちに引っ張られ、その印象がガツンと残る。

そして、複雑な味わいのある珈琲もまた、香ばしさの印象は二の次になる。

だから、清々しいほどに混じりっけなしの香ばしさは意外と珍しい気がする。

なんというか、手元から凧までピンと張った糸のような、しかも、その糸にぐいぐいと伝わる風を手に握っているかのような。

昔、図工の授業で、凧を作り、運動場で凧揚げをしたことがある。

凧が風に乗るまでは、結構、苦戦したのに、一度、風をとらえれば、手元の糸はぐいぐいと伸び、凧は頭上へと舞い上がり、大空へぐんぐん飛んでいった。

ただ、わたしは凧が飛んでいってしまわないように、しっかりと、糸をつかんでいた。

そして、気がついたのだ。

わたしがこの手につかんでいるのは、はるか彼方の風のゆくえであることに。

わたしが糸をしっかりとつかんでさえいれば、雲を突き抜けて、飛んでいく凧さえも、大空を右へ左へとかけめぐらせることができることに。

そんなふうに、風のゆくえをつかんでいるのはわたしであることに気がついたとき、こころには甘い安心感が広がっていった。

Myanmarの珈琲から感じた香ばしい甘さにそんなことを思い出した。

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