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歩くことと書くことについて

私は歩くことがすきだ。歩くことと書くことはかなり似ていて、どちらも私にとって精神のチューニングのような、旅のような、現実逃避のような役割を果たす。
私はいつでも旅がしたい。一つ所に留まっていたくない。どちらかというと引きこもりでインドア派で、世界一周どころか日本一周すらもしたことはないけれど、そういうことではないのだ。

在宅勤務で運動不足になりがちなので、昨日は仕事前に一時間ほど外を歩いた。最寄り駅まで行って帰ってくるだけ、くらいのつもりだったのだが、気が付けば興が乗って、行ったことのない駅まで歩いていた。ついでにその先まで歩いた。みすぼらしくて面白い商店街を見つけた。知らなかった橋の名前を知った。学校を見つけた。ツツジの花の香りを思い出した。朝のランニングをする人に出会った。歩道橋から通りを見渡した。

歩くことも書くことも、Google Earthの縮尺をどんどん小さくしていくような感覚を伴う。自分の体がふわりと浮いて、少し高い位置からより広い世界を見渡せるような。四畳半から最寄り駅まで、最寄り駅からその隣の駅まで。隣町の学校、歩道橋、見ず知らずの人たちの日常が息づく住宅街、ツツジの香り。そうやってどんどんどんどん、視界のすべてだった四畳半が小さくなっていく。自分の視座がぐんぐん高くなって、自分のちっぽけな日常を相対化して、やがては大気圏を突破して宇宙まで行けるような気がするのだ。歩いて歩いて、どこまでも歩いて旅をすることで、マクロコスモスに少しだけ近づける。

歩くことがマクロコスモスへのアプローチなら、書くことはミクロコスモスへのアプローチだ。あるいは、これはイメージの話だが、歩くことによってどんどん高く上昇して宇宙に近づくのに対し、書くことによってどんどん地下深くにもぐりこんで、地殻からマントル、最終的には核まで到達できるような気がする。できたことはないけど。

いずれにせよ、「自分の今いる場所を相対化できる」「知らない世界をみることができる」「行くはずのなかった場所に行ける」という点で両者は似ている。今だって、散歩楽しかったなーという日記で終わるはずだったのに、なぜか地球や宇宙の話まで行きついてしまって自分でもびっくりしているのだ。

私は、「こんなところ行くつもりじゃなかった」みたいな場所に行きたい。毎日それを繰り返せたら、それが私にとっての幸せだ。いまのところ。

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