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夏が嫌いだ

夏が嫌いだ。暑い。虫が出る。食べ物がすぐだめになる。顔がテカるし化粧はすぐ崩れるし、少し外を歩いただけで全身汗でぐっしょりになる。生きているだけで不快指数がすごい。
こんなふうに、夏が嫌いな理由を挙げようとすると、極めて卑近な、詩情のかけらもない項目ばかりが思い浮かんでしまう。
にもかかわらず、最近気づいてしまったのだが、私の中で「詩情」と最も深く結びついているのは夏という季節らしい。

夏は虚しい。どこにいてもなんとなく居心地が悪い。その最も大きな理由はおそらく、空が青いせいなのだ。叩けばスコーンと音がしそうなくらいの、どこまでも鮮やかな青。遠慮なく照りつける太陽の光。一言でいうと、圧がすごい。ただそこに立っているだけで、ぼーっと生きてんじゃねーよと責められているような気がする。
でももしかしたら、その虚しさや居心地の悪さこそが、私にとっては大事なものなのかもしれない。小説を書こうとするとき、まず浮かんでくるのは夏の景色だ。染み入るような蝉の声。深く強い草の緑。それらが擦れたときの青い匂い。ぼんやりと生きている私を責め立てるような空の青。すべてをさらけ出してしまう強烈な日の光。
私はたぶん、どこにいても基本的に居心地が悪い。そう感じることの多い人生を送ってきた。いまならそれが、たまたまそういう場所に置かれてしまったせいなのだとわかるし、環境に適応できなかったり集団にうまく所属できなかったからといって自分を責める必要などないのだと知っている。けれど、それが分かるまでの長い間、ずっと強烈にしんどかった。

「いじめられた側の人間にとって、『いじめられた事実』がなかったことになることは永遠にない。ただ、その人の人格の一部に吸収されてゆくだけだ」といった趣旨の文章をどこかで読んだことがある。わたしはいじめられた経験もあるし、いじめと言えるかどうか微妙なラインながらも集団の中で居心地の悪い思いをしてきたから、それは体感としてある。「あのときの辛い経験があるから今がある」なんて陳腐なことを言いたいわけではない。ただ、そのとき感じていたこと、見ていた景色、聞こえてきた声、どうしようもない閉塞感、疎外感、無力感、そうしたものすべてが、わたしのものだ。わたしの持ち物だ。それがわたしだ。と思う。そしておそらく、そうした記憶や経験と、「夏」という季節とは、私の中で強く結びついているらしい。そこに入り込めない、溶け込めない、眩しすぎて落ち着かない、という点で似ている。
それでも、嫌いなものを語るとき、人はちょっと生き生きするような気がする。嫌いなものの存在が、好きなものの輪郭を際立たせてくれたり、あるいはアイデンティティを支えてくれたりしているらしい。

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