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ドアの向こうへ vol.27

それにしても、夢だとしても縁起が悪いよな、師匠の足が
消えてるなんて。
そう言いながら否定をするように冷たい水で顔を洗った。
顔を拭きながら居間に戻ったが、どうにも気になって、
師匠へ連絡を入れた。

 「・・・・・・」
呼び出し音は聞こえるが、
出る気配がない。兄さんの誰かがいるはずだけど出払っているのかな。
もう一度かけてみようとした時、着信音が鳴った。
平蔵兄さんだった。慌てて電話に出る。
「はい、由美子です。兄さん、師匠に何かあったんですか?」
「あ、さくらさん、はい、そうなんです、実は今朝方、
勝平師匠が倒れまして、今、女将さんの所の病院に来てます」
師匠の女将さんは都内の大学病院の看護師長をしている。
「えっ・・・そ、それで、師匠の容態は?」
声が上ずり平蔵の声も遠くで聞こえる。
「はい、今は意識がありません、それと倒れた時に頭を打った
みたいなので、精密検査中です」
「そうなんだ、検査中なんですね。女将さんがついているから
大丈夫だと思うけど」
「そうですね、さくらさん。あっしもついていますんで、ご心配で
しょうが、今日の高座へ上がってくださいやし」
「ありがとうございます、兄さん。よろしくお願いします」
こう言って電話を切った。
 まだ、心臓が激しく脈打っている。
もしも、このまま・・・という予感が頭をよぎる。
いやいや、あの元気な師匠がそんな、はずがない。と頭の中で
何度もくりかえしている。直ぐにでも駆け付けたいが、私が行っ
たところで何の解決にもならないだろうし、どんな事情にせよ、
高座に穴を空ける分けにいかない。
「お母さん、どうか師匠をお守りください」
と母の写真に手をあわせた。

     ・・・・・・・・・・

 鍵本亭の昼の部を終えて、平蔵兄さんへ連絡を入れた。
「はい、平蔵です。さくらさん、お疲れさんです」
平蔵兄さんの声から察するに、容態の急変はないようだ・・・
「おつかれさまです。平蔵兄さん、師匠どんな感じです」
「はい、まだ目は覚めません。検査の結果、脳溢血だそうです」
「そうなんだ、倒れた時兄さんがいたんですか」
「あっしもトイレへと降りてきたら、師匠もちょうど用を済ませて
出てこられて、そこで急に倒れてしまって・・・」
「そうだったんですね、兄さんがいてくれて良かったです」
「ほんと偶然ですけど良かったです。すぐに救急車を呼んで、大学病院へ運んでもらいました。それで担当のお医者が言うには、寒い時期でなくてもトイレを済ませた後に起こることがあるそうです。師匠の場合も脳の血管が急激に縮んで、それが元に戻るときに破れてしまったようです」
「そうだったんだ、師匠、酒も煙草もやらないのにね・・・
私、鍵本終わったけど、夜の高座の八峰亭もあるので、顔を出せませんが、よろしくおねがいします」
「はい、承知しておりやす。ないとは思いやすが、万が一の時でも連絡は致しませんが、それでよろしいでしょうか」
「はい、兄さんそれで構いません、よろしくお願いします」
と言って電話を切った。

              ・・・・・・・・・・

 八峰亭の高座も終わり携帯を確認する。
平蔵兄さんからLINEで連絡が来ていた。
「お疲れ様です、高座がハネた頃だと思い連絡しました」
平蔵兄さん、スタンプを使うんだ。
ペコリと頭を下げたかわいい猫のイラストのスタンプだった。
「師匠の容体は変わりませんが、落ち着いているそうです。
あっしもこれで今日は帰りやす。それでは、失礼いたしやす」
平蔵兄さん、文章でも江戸弁になるんだなと、変なところに関心してしまった。そしておやすみなさいをしている猫のスタンプも貼ってあった。
ふふ、兄さん可愛いですね、と独り言を言いながら返信を書き込む。
「平蔵兄さんお疲れ様でした。ご連絡ありがとうございます。
師匠の様子も落ち着いていると聞いて少し安心しました。
兄さんも無理なさらずにしてくださいね。おやすみなさい
ませ」と打ってから、グッドナイトと言っているアニメキャラの
スタンプを一緒に送った。

《続く》

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