ありのままを受け入れるという事

何故それが出来ないのか。
親なら子がどんなふうに生きようと、どんな風に感じようと、その子の個を、1人の人間としての個を、認めなければならない。
何があっても味方で、命の危険に関わる事以外は基本的に肯定した上で教育すべきである。
否定からは何も生まれない。

そういった環境で育てなかった子が大人になって、親や家族を見捨てたとしても、仕方のない事である。

分かり合おうとしたところで、歩み寄る気のない相手には、無意味どころか、ここへきてもなお自分の考えを押し付けるのかと言いたくなるような話しかできないのが目に見えている。
今まで何度となく繰り返してきたからわかる。

一体どうしたら、この関係が丸く収まる日が来るのか?そもそもそんな日がくるのか?

家族に何かあっても、正直私にはなんの感情も湧かないのでは無いかと思う。

辛い人がいたら支えてあげる、人としてあるべき姿勢。そういうのが育たなかったのは、この家族のせいだから。そうした振る舞いをしても、嘘の振る舞いである。言われればやらん事も無いけど、基本的に無関心である。

家族など、いなくて良い存在である。
遺産だけ残してくれれば。ただそれだけ、それ以外に何も必要性を感じないのである。

こんな私はおかしいのだろうか?
自分でも客観的にこんな自分恥ずかしくて、知り合いやましてや好きな人に見せたく無い部分だと思うけど、どうしたら家族に対して思いやりを持てるのか到底分からない。

私が辛かった時にその感情を否定された思いは、こちらからは歩み寄れるものでは無い。あちらがその過ちに気が付いてただただ謝り、気持ちを理解出来なくとも、その人自身が抱いた辛いという感情は誰にも否定する権利は無いのだと、その人が辛いというなら辛いのだろうと、ただそれだけで良いのだと言うことを、たったそれだけを理解すべきなのである。誰にも他人の感情はコントロール出来ない事を分かるべきなのである。

あなたは辛いと言うけれど、考え方を改めてみたら辛い経験をしても今があることに感謝できる筈だなどと言う。そんなトンチンカンな事、普通は言えないはずである。その人の気持ちはその人にしか分からない。どんな相手であっても。感情自体を否定する人は一体何なのだろうか。どう言ったつもりでアドバイスしているのだろうか。そのアドバイスで救えるとでも思っているのだろうか。

結局、信仰だなんだと言っているくせに、自分が神かのように相手を見下し、裁き、否定している。信仰とはいったい何か。あなた方が信じている神とは一体なんなのか。

生まれた時から信仰を持つように教育を受けてきたけれど、そんな家族からは、何も学べないし、逆効果だったなと思う。

ようやくこの歳で、沢山したくもない辛い経験をしてきて、どれだけ神に救いを求めたところで報われる事は何も無かったという気持ちな今、ようやくようやく、はっきりとした疑いを持って、この家族の思想から距離を取る事を選べた自分がいる。

この先の人生、どうなるかは誰にも分からない。
もし必要ならば、私が幼い時から教会で聞いてきた神様なら、必ず私を信じさせてくれる筈だから。これまでこちらがいくら求めても手を差し伸べてくれなかったのに、いくらなんでも盲目的に信じるのは普通の人間の私には出来ない。

神はどんな人にも平等だと教わった。求めなさいそうすれば与えられますと聖書に書いてあった。求めてないから与えられないのだとそう思った。でも何度求めど、報われない事がこうも続いたら、人間だもの、そりゃ折れるよ。

全く信じられなくなった。
それを信じている家族が言う事も、当然の如く受け入れられない。

そんな事から解放されて、
自分の五感で感じたものを信じて、見えない物の裁きに怯える事なく、心自由に生きられたらと思う。

私の生きづらさの原因は、何もHSPという気質に限った話ではないと思うのである。
育ったこの特殊な境遇が故に、より強固に、生きづらさを増していったのである。

癖で、あぁ神様助けてくださいと思う事は良くあるけれど、結局は自分で判断して自分が頑張って生き抜いていくしか無いことに、ようやく気が付いたのである。

だかもう、誰も邪魔しないで。
特に家族。頑張って生きている人の否定をしないで。お願いだから。