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七つ下りの雨

夜。携帯の光が車の窓に映ってオーロラのように光っている。久石譲の「6番目の駅」が流れていたからなんだか美しく見えて、男はそれをぼんやりと眺めている。夏が近づいたことを感じさせる、雨の日の、湿度の高い夜。


そろそろ22時か…本当の時間とは少しずれた車の時計を見て、頭の中で計算する。男はどうすれば正しく設定できるのか知らなかったし、買ったときから仕舞いっぱなしにしている説明書を取り出してまで合わせようという気は全くなかった。のろのろとエンジンをかけ、もと来た道へとUターンしながら新しく買ったマットレスのことを考える。朝は…いや今日一日中、早くあそこへ戻りたいと思っていたのに、また…とため息をつく。毎日同じ繰り返しだ。この感情を表す言葉は…と思考を巡らせたが1ミリも浮かばず、アイツなら…と上手に言葉をつかいこなす物書きの友人のことを思い浮かべる。きっと的確に表現して心を軽くしてくれるのに。


男はどうにかしてアウトプットしたかった。言葉にすれば、自分の中にとどまらずに去っていってくれるような気がしていたからだ。でも生憎そういう力は持ち合わせていなかったから、背中に触れる服のタグが痒いことを煩わしく思いながら、ひたすら頭を動かすしかなかった。大人になってもこういう小さな事でーー男にとっては小さくはなかったかもしれないがーー無力さを感じるなんて思ってもいなかった。そもそも大人になるとはどういうことなのだろう。自分で生活する力があるか、現実を受け入れ進めるか、心の揺れを自らコントロールできるか…。だとしたら、まだ自分は子どもなのかもしれないと思う。子ども…声に出して呟くと「かたわれ時」のBGMに乗っかって車内に寂しく響く。こういう時はアイツだ。妙に確信めいた感覚が襲ってきて、急に家に帰る気力が湧いてきたので男はアクセルを少し強めに踏んだ。


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疲れた声で電話があった。久しぶりにもかかわらず「なぁ、ジブリの曲で何が1番好き?」と尋ねてくるものだから、パソコンに向かっていた椅子をクルッと回転させる。女子かよ、彼女かよ。「アシタカせっ記」かゲド戦記の「ハイタカ〜逃亡者」かなと随分悩んだ末に答えると、ヤツは「あぁーそれも捨てがたい」と唸っている。なんだ、何の電話だ。何かが閃きそうな気配が薄らと遠ざかっていくのを待て待てと留めておこうとしたが、難しそうだ。まぁよい、遠のくのならその程度の内容だったのだろうと自分に言って聞かせる。ヤツからかかってくる時は大抵、暇だとか誘いがあってとかではない。きっと俺に言語化したいことがある時だ。でもすぐさま話し出すのは照れくさいから、一旦たわいも無い話を挟むのだ。


足の親指に巻いた絆創膏が剥がれかけている。もう少し粘ってくれ。まだいけるだろう、などと考えていたら、話が何故かマクドナルドの話に変わっていた。そういえば、明日は彼女と出掛ける日だ。今時、便利になって部屋にカレンダーなど掛けている人は減ってきているのかもしれないが、紙に異様なまでに愛着を持ちがちな俺は品のあるーーと彼女に言われたから自分で言うのも許されるだろうーー壁掛けのカレンダーを使っていた。少し山の中にあるバーガーショップの名前がそこに書かれている。割とリアルタイムだなと思いながらも友人にはそのことは何となく伏せておくことにした。そこのはどんなポテトだろう。話を聞きながらぼんやり考えていてハッとする。俺の楽しみは…


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無類のハンバーガー好きの彼は、何だか今日は浮かない顔をしていた。あーあ、せっかく休日の朝でゆっくり起きたいところだったけど、褒めてほしかったし。早く起きて、髪、綺麗に巻いてきたんだけどな。化粧も上手くいってご機嫌なのに。注文した後、頬杖をついて彼を見つめていたら、気の抜けた声でなぁに?と言われた。なぁに?じゃないよ〜なぁに?はこちらの台詞じゃん〜!と一瞬思ったけれど、そこはぐっと我慢。お疲れねぇ〜と笑ってみせる。そもそも彼を連れ出したのは最近行きづまっているとぼやいていたからだ。きっとなかなかいい題材が降りてこないのだろう。ずっと家に居てパソコンと向き合っていたらしんどいはずよと思って、彼の好きなハンバーガー屋さんをめちゃくちゃ検索した。彼とは結構あちこち巡っていたから探すの難しかったんだよ、でも気に入ってくれたらまぁいいけどと思う。


「お待たせしました!」人に元気を与える笑顔選手権で優勝でもしてそうな女性が、野菜たっぷりのバーガープレートを届けてくれた。美味しさ倍増じゃん。どおりでこの店、男性も多いわけだ。店内を見回して納得する。私の笑顔、大丈夫かなぁと心配になったから、美味しそうね〜と満点の笑顔を目指して彼に微笑んだけれど、「えぇーここのポテトこっちじゃん!え、最高!」無邪気にはしゃいでいて彼は見てさえいない。そっかそっかと何だか言葉にしがたい感情が顔を出しそうになって慌てて深呼吸をする。私はポテトの種類なんてどっちだっていい。強いて言うならマックのが好きだと思いながら、厚みのあるバーガーを口に頬張ると、肉汁が溢れてお気に入りの薄い水色ワンピースに垂れた。…垂れた。


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今日もまたカップルでいっぱいだ。休日だから人も多いし、雨だし最悪。キッチンに入ると、「深山さん、お母様から電話!ついでに休憩入っていいよ!」とよく通る声で後ろから話しかけられてギョッとして振り向く。母…?携帯に繋がらなかったから?優斗に何かあったのだろうか。丁寧にお辞儀をして裏に入り、携帯をチェックすると何件か電話が入っていた。もう、LINEで連絡してくれたら少しは落ち着いてかけ直せるのに。母は携帯を扱うのが面倒なようで、電話しか使わない。赤い色で表示された母の名前を慌ててタップしてかけ直すと、意外にも電話口の声は穏やかだった。「優斗がね〜、熱があるのよ。こんな時期だから心配じゃない〜?病院連れていったほうがいいかしら〜?」昔からよく熱を出す子だった。その度に早く上がらせてもらっては病院へ駆け込んだけれど、不思議と着く頃には下がっていて「大丈夫ですよ、お母さん」と帰された。私に抱かれた彼は安心しきった顔で眠っていたのでホッと胸を撫で下ろす。彼の父親とはこの頃から不仲で、頼りたくても「俺だって忙しい」の一点張りだったし、独りになった今もそう変わらない。ただ、どうしても生活のために働かざるを得なかったから、こうして休日は母に預けて家を出る。この子を守るのは私。そう昔からずっと自分に言い聞かせてきたけれど、忙しい日の電話は私の心に濃い影を落とした。


朝、バタバタと作ってきたお弁当は、出来立てで詰められたことも忘れたかのように冷めきっている。早めに帰れるか、どのタイミングで尋ねよう。立てかけてあったパイプ椅子をゆっくりと広げて座り、考える。そういえば、さっきのカップルは昔の私たちと同じ顔をしていた。最後にハンバーガープレートを提供したお客のことが急に思い出される。彼女、私の顔を見て不安そうな顔をしたけれど、何だったのだろう。戻った時、まだ居ればいいなと思いかけて、居たところで私はどうするのだと一人で苦笑する。


午後4時。ようやく店を出た。開いている病院はあるのだろうか。傘もささずに車へ急ぐ。長く伸びた前髪が雨で顔に張りついて気持ち悪い。


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夜、まだ雨はしとしとと降り続けている。どんより曇った空は、梅雨入り宣言がなされたことで、まるで人間など構わなくていいという特権を得たかのような自由さで気ままに街を、そして私たちを濡らしていた。






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