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幸福の回顧 (with Kan Sano

絞られた照明の下、微かな光の中で静かに佇むピアノを眺めている。これから始まる時間をただただ沈黙して待つ、その黒い艶やかな物体は色っぽくて美しい。何かを待つというどうしようもなくもどかしい時間に最適なBGMがその美しさを引き立てていて、ただじっと耳を傾けていた。どなたの音楽だろうという疑問が大きくなって、携帯を手に取る。急に明るく目に飛び込んできた光が眩しい。


NABOA。初めましてだった。「DUSK」ってどういう意味だったっけと考えを巡らせていると、待ち合わせをしていた場所に到着した友人かのような雰囲気で彼が現れた。先程まで「待て」と言われた犬みたいにじっとしていたその空間が一気に始まりの空気に変わる。主人が定位置に座ると、一斉にみんな背筋を伸ばして座り直した。

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淡い柔らかな光が照らす白く美しい頸を後ろからぼんやりと眺める。この角度から見る、誰かの後ろ姿をこれほど美しいと感じたことはあっただろうか。きっとない。後から来たせいで席も選べず、顔も見えないのにここは間違いなく特等席だと思わせるその佇まい。ため息が出る。


繊細で美しい指が白鍵の上に静かに馴染む。そこにあるのが必然であるかのように、同じ物体であるかのように。「えっとー…何からしようかな」と彼は言う。気さくな口調と気楽な彼の言葉に、張り詰めていた空気が緩む。決めてないんだ!きっとみんな心の中で突っ込んだと思う。だって今にも弾き始めようとしていたから。プロにしか成し得ない技だ。それにしても何だよ、お腹空いたなのトーンで言ってのける、その力の抜けようは。何だか彼の日常に自分が溶け込んだのかと勘違いしてしまう居心地の良さがあった。

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幸福。目を瞑り、優しい花の香りを吸い込みながら青々とした芝生に寝転ぶ、春の暖かい昼下がりのような幸福。寒い日の夜、炬燵に足を突っ込んでこの映画、意外と面白くなかったねぇと笑いながら飲んだホットミルクのような、幸福。何気ない日常のなかにある尊い瞬間をまるっと寄せ集め、純度を高めたものに包まれた感覚になる。何かを見て聴いて、命を揺らしたり心を燃やしたり…ハートを丸ごと持っていかれたりしたことはあっても、この類の幸福感に包まれたことはあまり無かっただろう。この日一日をひと言で表すならば間違いなく「尊い」だった。

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何を食べよう。尊い余韻を引きずりながら、やたらと明るい光を放って立ち並ぶ店の前を通り過ぎる。とても空腹なのに、揚げ物でも焼き鳥でも中華でもないとわたしのお腹が言う。温かい具だくさんのコンソメスープか、くたくたになるまで煮込んだ何かが食べたい。そのものの味をゆっくり味わえるような、なにか。そういえば家に人参と玉ねぎ、鶏肉があったなぁと思い返しながら車のエンジンをかけた。


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私を魅了するもの

穏やかな空気感の中に垣間見える情熱。静かに持ったこだわり。あえて言葉にしない余裕やゆとりに…終始一貫した姿勢。この人らしいという「らしさ」を持った生き方。考え抜かれた思考に基づく豊かな理論。柔らかく知性に溢れた言葉。


あぁ、足りない。私にはまだまだ、すべてが足りない。









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