中空

心に浮かぶよしなしことを文章にする練習。本や論文の要約を始めようかと検討中。

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心に浮かぶよしなしことを文章にする練習。本や論文の要約を始めようかと検討中。

最近の記事

私と境界

はじめに  現在、私は岐路に立たされている。具体的には、このまま心理職を目指すか、他の道を検討するのかといったものである。他の道を検討する場合、今まで心理職を目指してきた連続性が失われることになると感じている。そこで、今回は現在の私の位置が境界にあるのではないかということについて言語化を試みたい。 境界について  境界と一口に言ってもその有り様は様々である。例えば、精神分析においては自分と他者の境界である自我境界という概念や、自身の身体と外界の境界である身体像境界という

    • 大学院受験とイニシエーション

      はじめに  現在、私は心理系大学院の受験をし、合否の発表を待っている。発表までの間に、受験勉強に向けて勉強していたために読めなかった本の消化や、ぼーっとなんとなしに考え事をしている。そんな風に過ごしているうちに、今までの学習や大学院受験、そしてこれからの学習や試験は心理職(臨床心理士・公認心理師。以下、心理職と記述。)になるためのイニシエーションなのではないかと思い至った。 大学院受験とイニシエーション  人の成長や発達において、ある段階から次の段階へ移行することを助け

      • 東畑開人「ふつうの相談」要約

        ふつうの相談  本書はふつうの相談とはどういうものかを思索した本である。まずは本書で扱っているふつうの相談について簡単に説明する。東畑によればふつうの相談とは、 とされている。 より具体的には、 であるという。つまり、専門性にかかわらずありふれたケアのことを本書ではふつうの相談として扱っている。 学派的心理療法と現場的心理療法  臨床心理学の歴史を振り返ると、学派的心理療法と現場的心理療法のダイナミズムであると言える。  学派的心理療法とは、精神分析やユング心理学、

        • 私の脳内生理

          はじめに  今回はタイトル通り、私が普段「生理」と呼んでいるものについて書く。普段から支離滅裂な内容のnoteを書いている自覚があるが、今回は普段以上に支離滅裂な内容になることをあらかじめ断っておく。なお、一般的な意味での生理ではなく、私が定期的に陥る状態を比喩的に生理と呼ぶものについてである。 脳内生理  まず、私が生理と呼んでいる状態についてだが、少しでも分かりやすくするために以下では脳内生理と呼ぶことにする。  私の脳内生理は1ヶ月から3ヶ月くらいの周期で訪れる思

        私と境界

          私が感じる相談することの難しさ

          はじめに  私は誰かに相談をすることが苦手だ。もちろん悩みや困りごとの内容によっては言語化することが難しいというのもあるが、それ以上に話すことで以前の関係が崩れてしまわないかだとか、周囲の私に対するイメージがネガティブなものにならないかが気がかりになってしまうというのが大きい。  今回は私が感じている相談への苦手意識を言語化することを通して、相談することの難しさについて考えたい。 誰に伝えるか  悩みや困りごとを誰かに相談したいと思った時に真っ先に考えるのは誰に相談する

          私が感じる相談することの難しさ

          恋愛とレバ刺し、もしくはユッケ

          はじめに  昔、私は肉の生食が好きだった。しかし、いつの頃だったか食中毒事件が起こってレバ刺しは禁止、ユッケは禁止されていないものの食べられる店が減ってしまった。さて、昨今、性に関する議論が盛んに行われているが、恋愛もレバ刺しやユッケと同じなのではないかと私は思う。そこで、私自身の恋愛体験を振り返りつつ考えていきたい。 恋愛と生もの  まず、私は恋愛は生ものだと考えている。もちろん、関係性に注目して生ものと言えるが、私が注目したいのは恋愛する主体についてである。高校生の

          恋愛とレバ刺し、もしくはユッケ

          「頭がいい」配信者

           先日某配信サイトをなんとなしに見ていたところ、「頭がいい」人が好きだという配信者がいた。気になって挨拶してみたところ、挨拶のあとに何か一言添えるのが頭がいい人だという見解を述べられた。どうやらその配信者は「頭がいい」人が好きらしく、その人が言うには端的な挨拶は「頭がわるい」人のものらしい。私自身、配信サイトをはじめとしたSNSのお作法について詳しくないためそういうものかとその場では思ったが、違和感を感じた。そこで、私が感じた違和感が何に由来するのかについて言語化を試みたい。

          「頭がいい」配信者

          自己責任論と無責任

          最近、自己責任という言葉をよく耳にする。 各々が用いる自己責任という言葉の意味合いは異なるだろうが、「なんらかの不幸もしくは失敗は当事者に問題があり、その責任は当事者が負うべきもの」とまとめて問題ないと思うので、今回は自己責任をこのように定義して扱いたい。 自己責任論は一見もっともらしい主張だが、私はこの言葉を他者に向けて発することは無責任の肯定、もっと大胆に言うと「無敵の人」の肯定だと考えている。 責任と関連する概念として意志がある。 ジョルジョ・アガンベンによると と

          自己責任論と無責任

          「普通」依存

          「普通」という言葉はとても難しい言葉だ。 曖昧なイメージを感じることができるものの、言語化を試みるとどうも上手くいかなく、「普通」とは何かという疑問が浮かぶばかりである。 もちろん各々がそれぞれの「普通」を持っていているし、同時に何かを異常だと判断する基準を持っているだろう。 そもそも異常とはなんだろうか。 「社会不適合者」という言葉があるように社会や文化から逸脱している、もしくは不適応であることが異常の判断基準になるかもしれないし、「落ちこぼれ」と言われるように平均より下

          「普通」依存

          自己紹介は苦痛

          noteに限らず何かを始める時、もしくは始めようとする時には必ずと言っていいほど自己紹介を求められるが、私にとっては苦痛以外のなにものでもない。 私は自己紹介が苦手だ。 端的にいうと何を話したらいいのか分からないからだ。 自己紹介というのだから自己についての紹介を求められているのは分かる。 では、そもそも自己とは何なのだろうか。 何かを眺めている私か、何かに働きかける私か、はたまた他者の中に移しだされたものなのか。 常識的に考えると「私=自己」となるのだろう。 ただ、私

          自己紹介は苦痛